【FIREしたけど幸せじゃない?】平野拓哉(ヒトデ)の人生を振り返ってみる(4.6万文字)

自分のこれまでの人生を全力で振り返ってみました!

このブログを運営してきた「ヒトデ」としてではなく、ヒトデくんという人格も持っている「平野拓哉」として、この振り返りは書きたいなと思っています。

そして全部で、4.6万文字あります。

もう1回いいます。

全部で、4.6万文字あります。

平野拓哉(ヒトデ)がどうやって出来上がったのか、とかそういうのが知りたいぜ! という方は、赤裸々に色々書いているので良かったら見ていってください。

【幼少期】:好奇心に溢れて、失敗する

 

1991年、愛知県豊橋市の田舎にて産まれる。

幼少期の記憶はあまりないけど、全体的にお調子者だった。

好き勝手に振る舞い、調子に乗って、失敗する。そんなことを繰り返す子供です。

  • サービスエリアの屋台の横で「安いよ安いよー!」等と呼び込みをしておっちゃんに気に入られた後に、自分が買ったお菓子をその場に置き忘れて車で号泣したり
  • カクレンジャーの刀で庭の植木を殴り続けていたらハチが出てきて刺されて号泣したり
  • 保育園から帰るときに、ふと「自分一人で帰ってみよう」と勝手に歩いて帰ったら、ちょっとした騒ぎになり死ぬほど怒られて号泣したり
  • 川に遊びに行って、30cmくらいの段差に出来た滝にケリを連発してたら足を取られて溺れかけて号泣したり

振り返って気付いたんですが、基本的に号泣してたっぽいですね。

コミュ力Yeah

小学校に上がって、親の都合で知り合いが1人もいない小学校に入学。

環境が変わり、友達が出来ないかも、みたいな心配も特に無く、速攻で溶け込んで、クラス全員友達Yeahみたいな感じ。今ではなくしてしまったこのコミュ力、取り戻したい。

両親は習い事をやりたい! といえば何でもやらしてくれて、僕はというと友達がやっているのを見ると「やりたい!!」とすぐに言ってしまうので、習い事だらけの日々を送ることに。

小学1年生の時点で

月:公文式

水:絵の教室

木:スイミング

金:公文式

と中々の習い事率を誇り、逆に習い事の無い火曜日は友人たちが遊びに来るのが小3辺りまでのルーティン。

ちなみに友達は2人とかじゃなくて、7人とかくる。多いと10人とか来る。毎週来る。猿のように騒がしいキッズが7人とかで自宅で大暴れをする。今思うと親、かわいそう。ありがとう、ありがとう。

他には柔道やテニススクールなんかにも行かして貰っていた。

ただ、何かを凄く極めるというようなことはなく、ぶっちゃけ大体の習い事は1ヶ月もすると飽きて嫌々通っていた節がある。ホントごめん。

総じて

好奇心旺盛で、人からの影響を受けやすく、とても飽きっぽい

冷静に振り返ると、今と全然変わってない。

【小中学生】神童と思ったが凡人だった小・中学校時代

神童の誕生である(小学校、低学年時代)

「いとこがやっていたから」という理由で年中さんからはじめた公文式という塾的なもの。上手くいくと褒められるものだから、調子にのって先へ先へと進めていた。

特に算数は顕著で、年長さんで九九が言えて、小2の辺りで分数の割り算をやっていて、周りの大人に「凄い!!」ってよく言われるから、

「そっかぁ、俺って、頭いいんだ~~~~」

って本気で思ってた。

小4の時にはじめて塾に行ったんだけど、その塾は、塾内のテストの順位がそのまま座る席順になっていて、僕はいつも左の一番前、つまり1位。塾の先生からは「神童」と呼ばれていた。

神童、そうそれこそが私なのである。

神童の終わりである

結論、別に神童じゃなかった。

塾では小6のあたりで新しく入った子に抜かされて二番になり、中学に上がってからのテストでは学年順位30番くらいだった。

ちなみに二番になったとき、母親がすごい怒ったのを覚えている。「悔しくないの!?」と言われたが、正直多少悔しいものの、なんで怒られなあかんねんと思ったのを覚えている。

ただこの時は「まあ、俺、勉強とか本気出せば全然やれるでしょ」くらいに思っていたんだけれど、段々と

「自分はただ予習して先取りしてたから他の子より出来ただけで、そもそも頭が良いわけではないのでは・・・・・・?」

という事実に気付き始めた。

その理由の1つとして、とにかく暗記モノが出来なかった。

単語やら漢字やら、本当に全然覚えられない。同級生が10分で覚えることに1時間かかる。暗唱テスト、何回やっても上手くいかない。何これ、おかしくない?

塾にも行っていない、学年順位一桁の友達が、自分が前の日に1時間とかかけて覚えてきた単語の小テストを、「普通に授業中に全部覚えるけど?」とか言ってて、なんか、普通に、萎えた。

成績が落ちる度にやたら怒る親を見て、余計に勉強に対する熱意が冷めていく。オレ、オコラレルノ、キライ。

 

かろうじで公文式の貯金でやってきたけど、中3に上がるころには自分の立ち位置をかなり理解してきていた。偏差値でいうと55くらい。普通よりちょっと出来る。天才でも神童でも無い、ふつーな自分。なんなら勉強が凄く嫌いになっていた。

そして普通に第一志望の高校に落ちて、第二志望の高校に行った。

その高校は家から自転車で45分という狂った距離だったけれど、今となってはいい思い出だ。そういうことにしておく。

小・中学生時代の友達事情

小中学生の自分は、友達がとにかく多かった。

同学年の95%くらいの人と楽しく会話出来るくらいには仲が良かった気がする。男女問わず、ヤンキーみたいな奴とも、運動部バリバリの奴とも、大人し目な奴とも、外国人とも、ちょっと変わってて浮いてる奴とも、誰とでも仲が良かった。

偏見のようなものを持っておらず、誰とでもまあ話せば仲良くなれるよね、という感覚を持っていたように思う。

逆に言うと、あまり特定のグループみたいなのに属して無かった。

 

小学生特有の派閥?のようなものがあって、そこがピリピリしてるときも、わざとどっちとも仲良くして、なあなあにしようとしていたのも覚えているし、

なんとなくあいつをハブにしよう、みたいになってる時に、わざとそいつと仲良くして、なあなあにしようとしてたのも覚えている。

そういうことすると、逆にイジめられたりしそうなものだけど、何故かなあなあになっていた。なあなあの達人だったっぽい。

今思うとかなりクラスで浮いていた子とも普通にゲームか何かの話題で仲良くなり、家に遊びに行ったらその子の母親が、友達を連れてきたことに感激して熱烈な歓迎を受けたのもこれを書いていて思い出した。信じられんくらいお菓子でてきた。

 

あとこれを書くに当たって、実家に帰り、小中学生時代の通知表を引っ張り出したのだけれど、必ずと行っていいほど

  1. 「明るく、誰とでもすぐに仲良くなります」
  2. 「やさしくて、誰にでも親切です」
  3. 「クラスの雰囲気を明るくします」
  4. 「授業中の無駄話は止めましょう」
  5. 「字はていねいに書きましょう」

の5つが書いてありました。

 

今の自分の印象とはちょっと違うんだけれど、小中学生時代はそういう感じだったみたい。(ちなみに字は今でも汚いし、大学時代のバイト先の焼肉屋で「ハラミ」を「これ何!? タン塩!?」って聞かれたことある)

 

今思えば当時から「派閥」みたいなものが凄く苦手だったと思うし、誰かをハブにしようだの、〇〇ちゃんと仲良くするなら友達じゃないだの、超くっだらねぇ~~~バカじゃ~~~んって思ってました。

 

ある主「空気読めない」みたいなところはあり、小学生の時に入っていたバスケ部で顧問の先生が練習を中断して、神妙な顔で皆を集め

「なあ、お前たちは楽しくやりたいのか? それとも勝ちたいのか? この中に楽しくやれたら良いって思っているやつがいるなら、手を上げろ」

的な説教を始めたときに

(まずは楽しくやることが一番だよなぁ!!)

と意気揚々と自分だけ手を上げてしまって、体育館の空気が終わりました。

ちなみに言う事決まってたみたいで

「………まあ楽しみたいという気持ちは否定しないが、お前たち勝ちたいんだろ? それなら緊張感を持って練習を~」

と何事も無かったかのように既定路線に戻っていった。ちなみにそのバスケ部は1年で退部した。

振り返ると、「みんながこうだから、こう」みたいな同調圧力的な決めつけを凄く嫌っていたように思う。

周りの空気がどうであれ、自分はこう思う。みんなそうやって言うけど本当にそうなの? 先生や大人が言うことは全部本当に正しいの? 先生や大人が言うからって、自分の意見を変えるのはおかしくない? 皆がそうでも自分は勝手にする。

この「同調圧力きっも!!」みたいな感覚は、大人になった今でも根強く持っている。

振り返っていると、うっかりいじめられそうなものだが、むしろ誰とでも仲良く過ごしていたので、いい感じの落としどころを見つけるのも上手かったのかもしれない。

今でも自分に通底してある特性をまとめると

  • 偏見が無くて、マイノリティな存在も、個人として受け入れる
  • 物事をいろいろな角度から見る(視点や意見を強制されるのを嫌う)

これらは凄く当てはまるなぁと感じる

オリジナルの遊びを考える

振り返ると、小学生時代、やけにオリジナルの遊びを考えていた経験がある。

幼少期の公園で「ガウ」しか喋ってはいけない「ガウちゃんごっこ」から始まり、給食の牛乳瓶のフタを使ったメンコのルール化や、オリジナルのカードを作って遊びカードゲームや、ひたすら口頭で架空のRPGをプレイしてもらう謎の遊び等々、

今思うと「何が楽しいんだそれは」と思わざるを得ないようなことも、当時は自分はもちろん、周りの友人も一緒になって楽しんで遊んでいた。

勝手にオリジナルの遊びや遊び方を考えておきながら、それが流行る頃には自分が飽きるという感じだった。

既存の何かから、新しい何かを生み出して、それで人を喜ばせる。そんなことを自然としていたように思う。これは今の自分にも凄く繋がっているように感じる。

はじめての文章で人が笑う経験と、小説

「自分の書いたもので人が笑う」という体験を初めてしたのは小学5年生の時。

夏休みの宿題で「読書感想文」か「詩」を書けと言われていて、当時読書感想文が苦手で苦手で仕方なかった自分は、文字数の少ない「詩」を選択。

ただ詩なんてわからないから、全然完成できず、直前になって、苦し紛れで当時飼っていたハムスターの「マロン」についての詩を書いた。

セオリーガン無視で、ただちょっとおもしろくしてやろーと思ってちょっとしたオチもつけて20分で書いたのだが、これが何故かすんごく評価された。

クラスの皆の前で読み上げて発表する機会があり、皆真面目な感想文や詩を読み上げている中でフザけ倒していた自分の詩は大爆笑を攫い、終わったあとにアンコールを受けるという始末だった。

 

これに気を良くした自分は、その後もオリジナルの作品を友達に勝手に発表したりしていた。(しかし、今思うと全くオリジナルではなく、自分がインターネットとかで見つけた面白い文章のモロパクりだった)

そんなことをしている中、小学6年生の時に身内受けを狙って書いた小説(といってもキャラ名とセリフしか無い、SSのようなもの)がバカ受けし、シリーズ化し、続きをせがまれるという体験をすることになった。

(ちなみに当時の担任の教師を敵役にした、今思うと本当にひどいものだった)

読みたいと言ってくれる同級生を、如何にして笑わせるか、ということだけを考えて作っていて、今思うと本当に恥ずかしい出来だし、ただの身内ネタなんだけど、その身内には滅茶苦茶にウケていた。自分にとって「書いた文章で人が笑う」という本当に大きな体験になった。

 

この出来事をきっかけに「小説家とかになれたら最高じゃん!」と思うようになったし、小学校の卒業文集でも将来の夢は小説家と書いていた。世の中はそんなに甘くは無いわけだけども。

ちなみに家族からは「もうちょっとまともな仕事をしてよね」と言われていた。

家族、主に障害のある弟の話

折角なので家族構成を少しだけお話すると、7つ上の姉と3つ下の弟がいる。

姉はちょっとバカだけど、その分純粋な心の持ち主で、一時期いじめられもしたけれど、今となっては普通に仲良し。(ちなみに今は三児の母! すごい!)

弟は「ダウン症」という知的障害を持っているいわゆる障害児で、凄く簡単に言うと、諸々の成長が遅い。特に頭の成長は遅くて、今でもざっくり5,6歳くらいの知能しか無い。

 

じゃあそれでうちの家庭が凄く大変だったかと言うとそうでもなく、たぶん両親とかは凄く悩んだと思うんですが、僕も姉も特にグレたりすることなく、普通に育ちました。生まれたばかりのときは多少寂しい想いをすることもあったけれど、逆に言うとそれくらい。両親、偉大過ぎる。

弟本人も、昔から明るく、今でも人が好きで、小さい時はかわいらしい外見もあり、皆から好かれていた。

年が近かった自分は弟の面倒を見る機会が非常に多かったけれど、それにそこまで不満もなく、むしろ褒められるし、そのことを誇りに思っている節もあったと思う。

僕は今でも結構

「視野が広く、いつでも全体を見ている」

「優しい雰囲気で、見捨てられない安心感がある」

等と褒めて貰うことがあるし、自覚もあるんだけど、今思うと、これらは弟との触れ合いの中で身についた能力だなぁと思う。

特に幼少期の弟は目が離せず、一瞬の隙をついてダッシュして転ぶし、ベランダの柵によじ登るし、台所においてあった包丁をおもちゃだと思って持ち出すし、勝手に玄関の鍵をあけて何処かに行ってしまったりと中々の手のかかりっぷりで、かなり気が抜けなかった。

いつでも弟を視界の端に入れておくことがクセ付き、いつ弟が走り出したらい転んでもいいようなポジショニングをし、誰かと遊んでいても、弟が一緒のときは常に弟を気にかけていたので、一歩引いた全体を見るクセがついたんだなと思っている。

「特別」への強い憧れとコンプレックス

特別グレたりとか、大変な想いをしたわけではないのだけれど、振り返っていて思うのは「特別」への渇望があったように思う。

弟は障害があって大変。これは間違いない。

でも包み隠さず言うと、僕は同時に「いいなぁ」とも思っていた。

弟はいつでも周りの人に世話をされて、注目を集めて、特に両親は弟を第一に色々なことを考える。

それを見てきた自分は「弟はなんて特別な人間なんだ」と思った。

同時に「自分はなんで特別じゃないんだろう?」とも思った。

特別になりたい。誰かにとっての一番になりたい。心の片隅に、常にそんな気持ちがいたように思う。なんなら、今もちょっといる。

きょうだい児の結婚

少し時系列が前後してしまうが、大人になってからは、弟がいることで将来について悩んだことが正直結構あった。

幼少期はそんなこと全然考えなかったんだけど、姉が結婚して家を出て、自分も就職しようと思った時に、ふと「あれ、これってどうなるんだ????」と考え込んでしまった

とりあえず両親は自分より先に亡くなってしまうし、姉は結婚して、子どもがいる。

あれ? そんなら消去法的に、俺が面倒みなかったらダメじゃない? そんで、そうなると、家を遠く離れて暮らしたりとか、結婚したりとか、そういうの無理じゃない?

自分は兄だから別に良いけど、パートナーから見た弟の存在って、デカ過ぎない?? みたいな。

ただ、自分自身、結婚願望はそんなに強くなく、まあいっかぁ、なんとかなるなる、くらいに思ってたんですが、後々同じ境遇の女性と出会って、その方と結婚することになりました。人生、何がおこるかわからない。ありがとう弟よ。

そのへんの詳細は別記事でどうぞ▼

「きょうだい児」が結婚した話こんばんは。ヒトデです この記事では、ちょっと重たい話をしようと思っています やはり自分にとっても勇気がいることで、少し手が...

特に良いところが無い部活の話

時系列を戻して、小中学生時代の部活の遍歴としては、

  • 小学5年生バスケ部
  • 6年生陸上部
  • 中1~3年はテニス部

だった。ちなみに大体の理由が「友だちに誘われたから」だった気がする。

バスケ部は↑にも書いた通りで顧問とも馬が合わず1年で退部、帰宅部だと周りに色々言われてうるさかったので、「6年生の5月の大会で即引退」という理由だけで、6年生の4月から陸上部に入った。走り高跳びをやったけど、特に結果は残せず、大会にも出ていない。

中学に入り、テニス部へ。

当時は「テニスの王子さま」という漫画が全盛期だったりもしていて、結構な人気だった。

無駄に部活に打ち込んでて、朝の5時に練習とかしてた。

でも今思えば、本気で勝ちたいから練習!っていうよりは、遊び的な側面が強かったように思う。「仲の良い友達と、そんな時間から集まって頑張る」みたいなのが楽しかったんだなと。

冬の朝5時とかに集合して練習してたけど、日が出てないからボール見えないしな。

 

ちなみに大会は普通に地区大会の1回戦で負けた。ダメ過ぎる。

学生時代の恋愛事情について

小学二年生の時、転校してきた子に恋をして、なんだかんだ片思いを続けること6年。中1の春に付き合うことになった。

ちなみに、告白方法は男らしくない告白方法No1とも言われる手紙であるが、しっかり成功した。たぶん当時からセールスライティングが上手かった。

 

なんか「付き合ってるのがバレると恥ずかしい!」みたいなガキ特有の価値観があり、いつものグループと解散したあと、こっそり2人で落ち合って下校したり、手をつなぐのだけで1年かかったりと、中学生らしさ満載の恋愛だった。

当時の言動を思い出すとぶっ殺したくなるようなことも多々あれど、今思えばそれも含めて良い思い出と言える。

当時はなんか、世の中の男女が付き合ったとか別れたとか言ってるの本当に全然理解できなくて

「それってやっぱ本当に好きな人と付き合ってないからじゃないの?」

とか結構本気で思っていて、彼氏に振られた直後の姉に↑の発言をそのまま伝えたらぶっ飛ばされた経験もある。

ちなみにこんなことを言っておきながら、自分もその子に高校1年の春に振られた。

しっかりそのことを引きずりつつ、高校2年生の時に告白してくれた、同じ中学だった子と付き合うも、しっかり引きずってるので2か月で破局。申し訳ないことをした。

で、その後なんですが、えーーーーっと、22歳くらいまでずっと彼女がいませんでした。

17歳から、22歳まで。高校2年〜大学4年まで、彼女がいない。

いやいや、一番のゴールデンタイムを逃してる。そこ、人生で一番彼女がいるべきところだろ。おかしいだろ。

【高校生】オタク文化にのめり込んだ高校生活編

勉強がキライになり、第1志望の高校にも落ちて、同じ中学からは3人くらいしか行かない、片道40分の高校に通ったことで、人間関係が一度完全にリセットされてしまった。

普通に友達とかは出来るわけだけれど、小中と9年間築いてきた関係と比べると、どこかよそよそしく、馴染めている感覚は薄かったように思っている。

 

小中学校は、男女問わず誰でも友達!イエイ!って感じだったのが、この頃から、なんか引け目を感じていたような感じがする。たぶん、ホームでは輝くけどアウェイでは輝け無いんだと思う。

当時はわかっていなかったのだけれど、入学した時の自分はいわゆる「カースト下位」な存在で、でもその自覚が無いまま「カースト上位」な人達に話しかけたりして、空気が変なになる、みたいな経験をするうちに、「なんかおかしいなー」と人間関係を小中学校時代のように大きく広げることができなくなっていた。

といってももちろん3年間通う中で仲の良い友達もいたし、文芸同好会に入ったり、オタク文化にハマったり、それなりに楽しく過ごした。

ただ学校外の友達とカードゲームとバンドをやっていた印象は強いけれど、逆に学校内であまり印象的なことが無いかもしれない。

 

あとハマっていたアニメやゲームと、自分の高校生活が違うことに謎に苦しんだりはしていた。青春コンプレックスと言えるかもしれない。ただ冷静に考えると、自分が想像するアニメやゲームのような高校生活を送ってるような人はたぶんほぼいない。何故ならあれはフィクションだからである!

今思うと、友達がいて彼女がいたりいなかったりして、打ち込める趣味もあって、そんなに悪く無い高校生活だったなと思える。

勉強ができずに完全に落ちぶれる

薄々と嫌いだった勉強は完全に嫌いになり、高校に上がってからは親からの強制力もなくなったため、全く勉強をしなくなった。

その結果、テストの順位はあれよあれよと落ちていき、入学時は(第二志望だったこともあり)トップ20%くらいだった成績も、最終的には下位20%くらいになっていた。

大学入試の志望校も、入学時に思っていた大学は当然落ち、その下の候補の大学も落ち、別の候補と思っていた大学にも落ちて、滑り止めと思っていた大学にも落ちた。

 

いや、ヤバ過ぎん? と思っていたら、滑り止めよりもさらに偏差値の低い、いわゆる「Fラン大学」に合格したので、そこに行くことになった

偏差値でいうと44とか。英語の授業はbe動詞から始まるような大学だった。自分のこと頭良いとは思ってなかったけど、なんか、結構落ちぶれたなあと凹んだりもした。

 

大学生になったら、一人暮らししたいな~とか思っていたんだけど、絶妙に家から通えるくらいの距離で、受験に失敗しまくった負い目もあって言い出せず、せっせと通った。

何度も

「この時受験に上手くいっていたら、また違う人生だったかな~?」

とか思っていたことがあるんだけど、結果的に今の人生が最高なので、下手にここで上手くいっていたら普通にまっとうな会社員やってたのかな~と考えると「Fラン入学ナイスゥ!」くらいに今は思っている。

ヴァイスシュヴァルツ!!!!!(趣味としてのオタク向けカードゲーム)

高校生生活を振り返り、青春真っ盛りの自分が1番ハマっていたのが、このオタク向けカードゲームの「ヴァイスシュヴァルツ」だった。嘘ですやん。何やっちゃってんのよ。

ただこれね、凄く楽しかった。

カードゲームって、楽しいんだよね。

限られたリソースの中から、カードを選抜して、自分だけのデッキを考える。これとこれ、組み合わせたら悪いことができる! とか、今の環境でこれが流行ってるから、誰も使ってないけどこのカードがぶっ刺さる! とか、構築の段階で楽しいし、

それらを実践で試しながら細かく調整をして、枚数のバランスやこれを入れる入れないといったことを突き詰めていくのも楽しい。

高校2年~大学3年あたりまでのかなりの時間をカードゲームに費やしていて、学校終わったら速攻でカードショップに行き、閉店までいる、みたいな日々を送っていたし、土日も普通に通っていた。

 

はじめは同じ高校の友だち2,3人とやっていたんだけれど、同じように来ている別の高校のグループと仲良くなり、段々とその輪は広がって、半年後くらいには15人くらいのゆるい集まりになっていて、そこのカードショップに行けばいつでも誰かいる、みたいな感じになっていた。

印象的な出来事として

「うわ、明日台風だって」

「いや、台風来るの昼らしいから、開店(10時)に来れば逆に大丈夫じゃね!?」

「それだ!!」

とか言って本当に10人くらい開店時間から集まり、その後台風が直撃するも、閉店までショップにいたから帰りは普通に台風去ってる、みたいな。

何がそんなに面白いねんってくらいハマってた。

 

カードゲームがきっかけで、地元ではもちろん、ネット(当時はモバゲーやmixi)をきっかけに全国に友達もできた。

はじめはネット上で交流してるだけだったけれど、仲良くなりすぎて夜行バスで東京まで行って、一緒にカードゲームして家に泊めてもらうとか、逆に豊橋の田舎にある家まで東京のみんなが遊びに来る、みたいな体験もたくさんした。

 

あと皆で車に乗って名古屋や浜松の大会に出場しに行ったり、その帰りに普通に観光したりと、中々楽しい日々だった。

カードゲームなんて生産的じゃないことに熱中するってどうなの? 的な話もあるし、当時も思わないでも無かったけど、友達がたくさんできて、毎日バカ笑いしていたあの日々は、今でも結構輝いて見える。

強いて問題をあげるとするなら、オタク男性で構築されている環境なので、女の子との触れ合いが全く無いということ。悲しいね。

オタク文化に感化される高校時代【陰キャ】

たぶん、この章は読み飛ばしても何も問題が無いのだけれど、自分を形成する上で外せない要素なのでしっかりと書く!

元々漫画がすごく好きではあったのだけれど、高校生になり、自分専用のPCが与えられたことにより、インターネットの世界にどっぷりとハマった。

当時はニコニコ動画が大流行している時期で、かつ黎明期ということもあって、違法アップロードが数多くされていて中々カオスな状態だった。

今となっては信じられないが、YouTubeはそこまでの知名度が無く、動画サイトといえばニコニコといった状態だった。(特にオタクの間では)

 

ありとあらゆるアニメがアップされており、片っ端から見漁っていた。

派生して原作のラノベを読んだり、「2チャンネル」にもハマり、専用ブラウザを入れて入り浸っていた。絵に描いたようなオタクだった。

2chの中で論破されて煽られて顔真っ赤にしながら「今から彼女とデートだから^^ じゃーなクソニート^^」とかレスしてた。(彼女無し)

 

このインターネット煽り合いの文化は、不毛と思われたが、これから先もインターネットと共に生きていく自分に「煽られ耐性」と「匿名での早めの失敗」を授けてくれたという意味で、今思うと非常に重要なステップだった。

そして何だかんだオタクにはオタクの友達が出来るわけで、そいつらとニコニコ動画の話やアニメの話をしながら楽しくやってた。

ちなみにこの中で1つ、自分がドハマりした作品がある。それが「CLANNAD」という作品だ。

原作はいわゆるギャルゲーで、モテない男が、架空の女の子と恋愛するようなもの悲しいと思われるジャンルのゲームなのだが

これに、大号泣した。

今まで「作品を見て泣く」という体験をしたことなかった自分はこれに衝撃を受けた。アニメの9話辺りまで見て(風子ルートだよ)、我慢できずにそのまま自転車で近所のブックオフに行き、PS2版CLANNADを購入して毎日プレイしては泣いた。

オタクは初めて感動させられた作品を親と思い込む特性があるが、それが自分にとってのCLANNADだった。

これをきっかけに、いわゆる「泣きゲー」もっというと、エロゲ・ギャルゲーにハマった。

 

……ちょっと待ってほしい。今、離脱の気配を感じた。そしてオタクへの偏見を感じた。感じたよ。

今どきね、男らしいとか女らしいとか、そういうの、許されないと思うんだよね。多様性のある世の中だから、表面的な部分だけで判断を下すのは良くないってこと。

つまり、エロゲを(そしてエロゲをやってる人間を)変なものとして扱うのは止めようねって話です。

エロゲの素晴らしさを皆さんは御存知無い? 

は~~、もったいな。そもそもエロゲというのは

ーーー

 

カットします

 

ーーー

ちなみにエロゲにハマるとか言うと、もてない男が疑似恋愛や疑似S◯Xを求めてやってるみたいな印象があると思うんですが、エロゲにおいてそのニーズは実は結構稀で、猛烈に売れているゲームは、基本的に「シナリオ」で売れています。

例に漏れず、僕も疑似恋愛ではなく、シナリオを求めていました。(ちなみにもてない男ではありました)

 

先ほど例に上げたCLANNADもテキストデータ(本文の量)がざっくり4MBあります。容量で表すことはあんまないと思うけど、普通の小説はざっくり300KBくらいです。つまり、1作品で、小説でいうと15冊分くらいですよ

 

クリアに50時間とかかかるんです。50時間ですよ? 戦闘があるわけでもなく、アクションがあるわけでもなく、ただテキストを読むだけのゲームで50時間。それだけの物語が、1本のゲームに詰まってるわけです。わかりますか? この濃密さが

 

ゲームというよりも、小説とアニメの間のようなコンテンツです。

 

その密度でキャラクターに感情移入して、様々な問題を乗り越えたり、自分と向き合ったりしながら、未来へ進んでいくわけですよ。

人生でしょう? これが人生じゃなかったらなんなわけ? あんたたち、他人の人生生きたことあんの?

 

まとめると、CLANNADは人生です

 

この

「自分の生み出した作品で、とんでもない人数に笑いと感動を届けている」

「従来は「美少女といちゃつく」みたいなのが主流だった美少女ゲームを、「シナリオを重視した感動する作品(=いわゆる泣きゲー)」という新しい王道を創り上げた」

という点にリスペクトが止みません。(CLANNADがその代表作というわけではないのだけれど、自分にとってインパクトが大きかった)

自分もいつか、そんな作品を作ってみたいと本当に思ったのであった。

同時にバンドマン(ドラム)をやっていた

学生時代の別の思い出として、バンド活動があげられる。オタク活動との振れ幅が結構大きいのだけれど、高校1年の5月、中学時代の別の高校に行った親友から突然電話がかかってきて

「バンドやろうぜ! 俺ギター! お前何やる!?」

と言われて「うーん、それじゃあベース!」って答えたけど、3日後くらいに

「ベースが見つかったからお前はドラムだ!」

と言われて、「わかった!!!!!!」って感じでドラムになった。

結構滅茶苦茶な話ではあるんだけれど、ろくな部活にも入ってなくて、高校生活ってこんなもんかーとか思っていた自分にとっては普通に嬉しい提案だった。

 

そのあと家に来たその友達と30分自転車を漕いで楽器屋に行き、バケツに突っ込まれている2本で500円のスティックを買って、少年ジャンプをガムテープでぐるぐる巻きにしたものを叩いて練習したのを覚えている。

 

こんなノリで始めたバンドだが、結局一緒にやる相手は変わりながらも社会人になっても10年以上続いたので、今思うと中々長い趣味になった。

結構な回数ライブとかもしたり、スタジオに何回も入ったり、みんなであーでもないこーでもないとオリジナル曲作りしたりと、非常に楽しい趣味だった。ちなみにモテなかった。

後悔があるとすれば、同じ高校内では何故かドラムをやってることは明かしておらず、文化祭等で演奏することもなかった。普通にやればよかったよね

 

全体的に、本気でのめり込んではおらず、皆のサポートをしているという認識が強かった。バンド内で結構音楽性の違い(???)とかで喧嘩もあったりしたんだけど、自分は「まあどっちの言う事もわかるよね」と少し一歩引いた目線から仲介をするような立場にあったと思う。

ちなみに高校卒業後、大学の軽音サークルに入るも、体育会のノリに全くついていけず、2ヶ月で退部。

趣味として別のメンバーとアニソンバンドをやったり、その後誘われたパンク系のバンドに参加したりと、なんだかんだ社会人になっても続けていたけれど、副業が忙しくなるにつれてなあなあになり、やらなくなってしまった

【大学時代編】主にニコ生をしていました

ニコ生編! ちなみにオフパコはしたことない

大学時代に自分がハマってたこととして、ニコ生があげられる。

ニコ生、ニコニコ生放送の略で、簡単に言うと動画配信である。今でこそYoutubeやらtwitchやらが主流だけれど、当時は生配信といえばニコニコ動画だった。

スパチャがあるわけでもなく、アドセンス収益が貰えるわけでもないのに、皆純粋に楽しくて配信をしていた。

 

自分もその一人で、週5くらいは配信をしていた。

今当時のやつを見ていたら、累計1000回配信していたらしい。やりすぎだろ草。

 

この勢いで始めた配信も中々楽しく、はじめはもちろん視聴者0人から始まるわけだけど、(普通に30分無言でゲームしてた枠とかある)、次第に常連になる人が現れて、少しずつコミュニティが形成されていくのがとても楽しかった。

 

はじめは名作RPG(たしかクロノ・トリガー)をプレイしていて、他にも名作フリーホラーゲームだったり、ネタっぽいゲームを良くプレイしていた。

当時1番伸びたのがダークソウルというフロム社が出しているいわゆる「死にゲー」で、自分はアクションゲームがあまり得意ではないのだけれど、「下手で死にまくる」というのが逆にウケて、視聴者が滅茶苦茶増えた。

といっても、同接100人程度で、リアルタイムのランキングの下の方に乗る程度だったが、当時の自分としては「めっちゃ視聴者いるやん!!!」と興奮したものだった。

始めのボス(ガーゴイル)を倒すのに6時間かかり、中盤の難所のボス(オンスモ)を倒すのには4日かかったが、皆の応援を受けながらクリアした瞬間はとても気分が良かった。

別に大手というわけではなかったが、視聴者が定着したので普通に雑談枠をするだけでも読み切るのが大変なくらいコメントが来ていて、楽しかった。

ジョジョASB、本当に「ありがとう」…。それしか言う言葉が見つからない…

その後、ニコ生人生を最も楽しくしてくれたのが「ジョジョASB」という格ゲーだった。

自分が好きな漫画No1である「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画の格ゲーであり、

当時はクソゲー!等と騒がれていたが、ジョジョの大ファンだった自分からすると、ジョジョのキャラがフルボイスの3Dで動く次点で神ゲーであり(当時はまだ3部以外アニメ化をしていなかった)、今まで格ゲーを全くやってこなかった自分も、毎日ひたすらやるくらいのめり込んだ。

クソゲーと名高いことによりどんどん人がいなくなるが、逆に生き残ったジョジョ好きの猛者達が自分のジョジョASB配信を見つけてくれて、そこで一緒に対戦するうちに凄く仲良くなった。1つのコミュニティができあがった。

 

配信だけにとどまらず、毎日スカイプを繋いで対戦したり、なんなら違うゲームも一緒にやったりした。

段々と仲良くなってリアルで会ったり、ジョジョバーというコンセプトバーを貸し切りにして、オフラインで対戦会をしたりもした。共通の言語を持っているというだけで、老若男女、様々な人と楽しく同じ時間を過ごせるということがとても楽しかった。

 

今思うと、カードゲームのときと似たようなことしてるなぁ。

 

ただ大学を卒業して、社会人になって忙しくなるにつれて配信を出来る日も減り、副業に夢中になっている間に、知らないうちにコミュニティ内で喧嘩(?)が起きてしまったようで、メンバーが分裂し、皆が散り散りになってしまっていた。これは中々悲しかった。

本当に色々な人がいる中で、何か1つのことが好きというだけで、凄く仲良くなれる。小さな居心地の良いコミュニティというものが、結構好きだなと、振り返って見て思った。

 

ちなみにニコ生主はモテる!! みたいな話もあって、周りでもやっただのやってないだの、そういった話は結構あった。

でも、自分はモテなかった。なんなのこれ。

ヒトデ人格の登場

この辺りから、インターネット上で「ヒトデ」という名前で活動していたのが、リアルでの自分とリンクし始めた。

元は適当にゲームのハンドルネームで使っていたのだけれど、特にニコ生をきっかけに「ヒトデさん」として認識されるようになっていった。

そもそもベースとして、2chネラー出身なので「インターネットで本名顔出しとか正気じゃねーよ!」と思っていて(っていうか今でも結構そう思ってるんだけど)、

そういう意味でもヒトデという人格は、「自分自身をインターネットに投影させると、こうなる」といった存在であり、あんまり、自分と別人格という実感は無かった。というか、だからこそこんな何年も「ヒトデ」として活動できているのだと思う。

とはいえ、じゃあヒトデの自分が素の自分100%かというと、そんなことは無いなと思って、この自分史はあくまで「ヒトデ」の中の人である「平野拓哉」として書いている。

(ちなみに、こうやってブログに本名を打ち込むだけで、実はちょっと動悸がする。顔出しとかしようものなら、心臓麻痺になる可能性すらある)

小説家に、俺はなる!!(なれない)

大学生時代、いよいよ就活も始まった頃、普通に就職したくなかった自分は「小説家になったら働かなくてもいいのでは!?」とか思って、真面目に小説と向き合うようになっていた。

小中学校は身内受け、高校時代は文芸同好会でゆるく書いたりはしていたが、賞に出したりしたことはなく、まずはそこをやってみようということになった。

しかし、実際には筆は全然進まず、出そうと思っていた賞にも全然間に合っていなかった。

なんか、こんなふうに全然動けないやつが、プロとかになれるわけなくね?

と、結構しっかり諦めがついた。

言い訳っぽく言えばセンスが無い。才能が無い。というか、資質がない。

文章を書くのは好きだけど、小説を書くのはまた話が違う。普通にひっそりと挫折したのだった。

アルバイト編:Fラン大学生、塾講師をする

アルバイトは、焼肉屋のホールと、そこがフランチャイズで始めた宅配カツ弁当の配達と個別指導の塾講師をやった。

どれも楽しかったけど、バイト終わりにみんなでウェーイ! みたいな展開は一度もなかった。そういうもんなん? もしくは俺、ハブられてる?

 

特に個別指導の塾講師は中々良い体験だった。

飲食店のバイトはやったし、どうせなら、なんか毛色が違うバイトやりたいな~、とか思っていたら、偶然募集を見つけて、応募してみた。

周りは教師志望の人ばかりだったけれど、人が足りなかったみたいで普通に採用してくれた。

Fラン大学の自分でも入れるような塾なので、どちらかというと、他の塾で入塾を断られたような生徒も多くいるような塾だった。通知表オール1の生徒とかもいた。

 

それは極端だとしても、オール2!みたいな生徒はどう考えても塾のカリキュラムとかではなく、学校の宿題を出すだけで成績が上がるんで、個別指導なのを良いことに学校の宿題をめっちゃやらせてた。

 

この手の生徒はそもそも塾の時間を「如何に授業時間をやり過ごすか」と考えていることがとても多く、それだとマジで勿体ない。でも学校の宿題をやってもいいとなると、「マジで! いいの!」と本来サボるはずの宿題を主体的に取り組めるし、躓いても先生が教えてあげられるから必ず終わるしと良いこと尽くめなのである。

 

普通に成績も上がったし、生徒からの信頼も得ていたが、普通に保護者と塾長にめっちゃ怒られた。まあ、金払って宿題やってたらムカつくよね。でも、一番大事なのはまずはそこからだろとか当時は思ってたんだけれども、大人になった今ならこう思う。

当時の自分、もっと上手くやれと。

生徒にマンツーマンに近い形で教えるのは好きだったし、結構楽しかったけど、その塾はびっくりするほどブラック企業で、塾長(というか塾長以外が全員バイト)が50連勤とかしてて死んだ目をしていることも多かったので、進路としては微妙だな~と思った。

大体バイトとニコ生(ゲーム)とカードゲームが主な大学生活だった。

【社会人編】懲役40年の地獄と絶望(2013年 22歳)

なんだかんだ就職活動に苦戦しながらも、自動車系の一部上場企業に就職できた。

大学4年、最後の春休みの絶望は今でも鮮明に覚えている。

視野の狭かった自分は、「これから定年まで、土日を楽しみに、せっせと働き続けるのか…」とか本気で思っていた。

 

仕事内容とか、自分が何をするかとか以前に

「仕事=やらされることで辛いこと」

という考えが完全に根付いてしまっていた。

 

そしてそこから半年間の現場研修が始まるんだけれど、これは中々にハードだった。

安全靴という鉄板の入った重いクツを履き、油まみれになりながら、1周1分で終わる単純作業を8時間+残業3時間。これを延々と続ける。

空調も無いに等しく、毎日残業と夜勤と休日出勤の日々だった。ハゲるかと思った。ちなみに3ヶ月で6kg痩せた。

そして自分は注意力や集中力が全く続かないので、工場での単純作業をひたすら失敗し続けた。失敗をすると、自分では対応せずに、機械を止めて先輩を待たねばならない。その度にヤンキーのような先輩が舌打ちをしながら対応をする。そして「すみません!」とか言った5分後くらいに普通に同じ失敗をする。

 

自分は大まじめにやっているが、先輩からすると、同じ失敗を繰り返すやる気のないダメなやつであり、怒鳴られることもあったりして中々に辛かった。単純作業のルーティンワーク、自分には致命的に向いてないことがわかったし、二度とやらないと誓ったのであった。たぶんあと3ヶ月も続いてたら適応障害担ってたと思う。

 

現場研修に関しては当時辛すぎて日記書いたので見てね。

【製造業】新入社員、現場研修奮闘記その1:意味あるの? これ

【製造業】新入社員、現場研修奮闘記その1:意味あるの? これ自動車業界への内定が出ている人は気になってますよね 現場研修のことが! 自動車業界なら大卒だろうと、間接部門...

社会人編2:社内ニート、副業のブログという希望の光り(2014年 23歳)

半年の鬼のような現場研修が終わり、僕が配属された職場は、車のシフターを開発する部署だった。嗚呼、椅子がある幸せよ。

しかしそこは少数精鋭(6名程度)のベテラン達が集う職場だった。具体的には僕以外は全員40代〜60代だった。おいおい。

 

それなりに知識や技術が無いと出来ない仕事で「でもいい加減若いの育てないとヤバくね?」みたいなノリで入れられたのが僕だった。

しかし、新しい部署という事も有り、教育体制とかは全くない。

なんだかんだ外部の研修に参加させて貰えることになったんだけど、それも1ヶ月後。

この1ヵ月、僕は、何してればいいの????

先輩たちも普通に忙しく、何も知らない新入社員に構ってる暇は特に無い模様。

上司「う~~~ん、勉強してて」

僕「わっかりました!!」

いや、全然わからん。勉強って何??

去年同じ研修に行った人がいて、テキストがあったのでそれを見て予習。わからないことがあったら調べてね、って事で、テキストパラパラしながらネット検索する日々。

まあ、飽きるよね。

そんなこと毎日8時間もしとれんわ、っていう。

始めこそ多少自主性を発揮していたが、「後日研修がある」という事実や「先輩たちの邪魔になるしな」という大義名分を使いサボりだすのであった。

なお、研修から帰ってくるとまた数週間後に別の研修がある、という無限ループであった(これは数ヵ月続いた)

そして、段々とネットニュースとかを見るようになり、ニュースどころか仕事と全然関係ないことを見始めるようになるのであった。っていうかひぐらしのなく頃にのwikiとか見てた。楽しいよ

(ちなみにブラウザメモ帳っていう、メモ帳にしか見えないブラウザがあると社内ニートが非常に捗るのでおすすめです)

そんな中、「面白い記事」を探すうちに、自然とブログに出会った

当時衝撃を受けたブログはこの2つ

水野敬也オフィシャルブログ「ウケる日記

片桐ハイネ「私の時代は終わった

リアルに笑いをかみ殺すのに必死だったし、今でも尊敬しているブログです。

こんな感じで毎日8時間ブログを読みまくる日々が始まった。仕事をしなさい。

そんなわけで、日々ブログを読んでいて、芽生えた感情がコレ

 

「俺も!! 書きたい!!!!!!」

 

元々mixiやらモバゲーやらで日記書いていた時の記憶が蘇り、「俺もこれ書けるんじゃねーの?」という気持ちになったのだ。

っていうか、こんな風に、皆に笑ってもらえる記事が書きたい!!!!

そして、現場研修から本部署に配属されて3ヵ月。入社一年目2014年の12月末、

ヒトデは、はじめてのブログ「今日はヒトデ祭りだぞ!」を始めたのであった。

https://www.hitode-festival.com/

もう少し詳しく、ブログや文章を書くことについての話

ここまで

  • モバゲーやmixiでも日記を書いていた
  • そしてブログを始めた

ということを書いてきたけど、そもそも自分がどういったことを思ってそんな文章を書きたいと思ったのかの話をさせて欲しい。

もちろん、過去に褒められたとか、書いていて苦にならないみたいな話も多少はあるのだけれど、一番根っこの部分でいうと、一言で言うなら

自分の文章で誰かが笑うのが嬉しい

という気持ちであり、

もっと言うと、自分の文章を見た人を何かしらポジティブな方向へ感情を揺らしたいと思っている。

そしてそして、それを「心から」感じて欲しいという癖が自分にはある。

心から人の感情が揺らぐのって、どんな時だろうか?

僕はそれを「不意打ち」だと思っている。

  • 予想外の方向で「そう来たか」と思わず笑ってしまう
  • 自分では全く気付いてなかったけど、確かにここにあったと気付いて泣けてしまう

そんな瞬間を見るのが何よりも好きで、

予定調和ではない、今までに無い、不意打ちして、思わず笑ってしまうような、泣けてしまうような、

つまり、感情をプラスに揺さぶるようなものを自分が作り出したい。

そんなものが自分の根っこに常にあったように思うし、自分が大好きな作品達はどれもそんな作品ばかりだった。

夢中でブログを書く日々(人生の転換期)

はじめは趣味として、ブログにハマっていく。

当時はまさかこれがきっかけで退職し、起業し、FIREするとは夢にも見ていなかった。

はじめのうちは、ただただネタ記事を書いていた。例えばこういう記事▼

バーバパパの『バーバ』って何よバーバパパしってる?   あのキッズが見てる奴、ムーミンのライバルみたいなやつ。⇩ いやこいつなんだけどさ、この真ん中...

我ながら意味不明な記事である。

ただ、当時の自分は「自分の書いた文章で誰かが笑ってくれ」というのがたまらなく嬉しく、おそらく数十人くらいしかいない「読んでくれる人」のために記事を書き続けていた。

ただ人間とは貪欲なもので、数日続けているとこんな風に思ってくる。

「もっと、読まれたいんだが??」

ということで、ここから段々と「読まれる方法」を研究するようになる。

はてなブックマークの人気エントリーに乗る方法の研究、トレンドを絡ませる方法、「バズ」を起こす方法、そしてSEO対策。

段々と出来ることやテクニックも増えていき、どんどん読まれるようになった。

最終的には月間150万PVのブログにまで育っていった。

 

同時に誹謗中傷とかもめっちゃ増えた。当時僕が書いていたはてなブログには、他のブログに言及したり、はてなブックマークで嫌味を言うような文化があったからだ。今思うと頭おかしいと思う。

 

当時は特に嫌儲(お金稼ぎを嫌がること)の雰囲気がすごくて、アフィリエイトリンクを張ろうものなら「アフィカスは死ね!」とコメントがつくレベルだった。

 

しかし僕はというと、前述した高校時代の2chの煽り合いの経験がまさかの活かされ方をしていて、周りのブロガーはそういった誹謗中傷に心折れて辞めちゃう人とかもいたのだけれど、自分は全然平気だった。

2chのあいつら、ここにいたんかい、とか思ってた。

 

続けていくうちにブログ友達も凄くたくさん出来て、オフ会にも頻繁に参加していた。当時の自分は勢いがあったので、たくさんのブロガーさんが会いたいと言ってくれて、凄くたくさん交流をした。

 

ブログ友達から、「グーグルアドセンス」や「Amaoznアソシエイト」をはじめ、色々な収益化方法も教えてもらって、自分のブログでもやってみたところ、月に数万円の収入が入った。

自分が好きな「文章を書く」ということが、ダイレクトにお金に繋がる。そんなことがあり得るのか??? と、非常にワクワクした。

それからは「収益アップ」「PVアップ」みたいなことにも凄く熱心に取り組むようになって、ブログをはじめて1年で収益月20万円。そして、1年半で100万円を突破していた。

副業で月収100万円! とかいうと、さぞかし血の滲む努力をしたと思ってもらうこと多いんですが、ぶっちゃけ全然そんなこと無かった。

確かに作業量的にはかなり多かったけど、「楽しんでやってるうちにいつの間にかそうなった」という感じで、これは今後のブログとかビジネスとか全部そう。「歯を食いしばって頑張る」みたいなことを一切してない。

これを聞いて才能すげえ! みたいに言われることもあるんだけれど、ここまで読んでくれた人なら分かる通り、めっちゃダメダメ人間なんです。

自分に向いてるやりたいことと、世界の流れが合流する地点に、運良く出会えたんだなと、今ならそう思います。

当時のPVアップの方法をまとめた振り返り記事はこちら▼

【100万PV達成】雑記ブログでアクセス(PV)アップする方法を全て教えるレールの上からこんにちは。☆←ヒトデです というわけでサラリーマンをしながら月間100万PV達成しました www.hitod...

俺は! 自己表現で! 金も稼ぐ!!

ブログにここまではまった理由を、当時の僕は

「おもしれーから!!!」

と言っていたし、本気でそう思っていたけれど、今振り返ってみると、もう少し解像度高く、しっくりと来る言語化ができる

一言で言うと

「自己表現で、金を稼げたから」

これに尽きると思う。

過去に一度小説を書くという自己表現で生きていきたいと思ったにも関わらず、それができずに挫折した後で、まさかの形で、別の自己表現で、それがお金になるということを知った。

しかも、もしかしたらそれが生きていくだけのお金になるかもしれない。

この高揚感は、何事にも代えがたいものだった。

ただ、誰かの言う通りに、社会の言う通りに、大人の言うとおりに、歯車のように働くのではなくて、

自分だからできる、自分の表現で、生きていく。

そんな夢のようなことが、本当にできるかもしれない。

そんな気持ちが、本当に大きな大きな原動力になっていたのだと思う。

月収100万円ブロガーへ

さて、月収100万円とか超えてくると、周りのブロガー友達からは「なんで会社員やってるの?」とか言われるようになる。

自分はどうしても「いうて水物のあぶく銭じゃん?今だけじゃん?」というのが捨てきれず、このままダラダラともう2年会社員を続けることになる。

この2年間もずっと副業ブログ収入が月100万円を超えており、多いときは月360万円ということもあった。こうなってくると、1日の売り上げが本業の月収を超えており、もうわけがわからなくなっていた。(ちなみに手取りは残業なしだと16万円くらいだった)

 

ただ調子に乗って、もう1つブログを立ち上げたりしてみたところ、普通に滅茶苦茶忙しくて、「流石に会社員やってる時間勿体なくね??」となって、悩みに悩み、フリーランスの先輩方にも散々相談して、いよいよ会社を辞めることにした。

 

今思うと、会社なんて辞めたらいいじゃん、って思うけれど、当時の自分からするとこれは本当に大きな決断で、これまで周りに起業をするような人は1人もおらず、ブログをするまで、周りの友人も全員会社員だった。

 

しかし、ブログをやっていく中で、ブログを一緒に頑張る仲間が出来て、色々な生き方をしている人を知り、自分の人生も、もっと自由にしていいのかもしれないと思うことが出来た。

ちなみにあまりにも人に聞かれるから、ブログのやり方を解説するサイトも作ったりした▼

hitodeblog│完全初心者でも出来るブログの始め方

追記:なんでそんなにブログで上手くいったのか

読んでくださった方から「どうしてそんなにブログがうまくいったの?」というご質問を頂いたので追記をしてみる。

自分が、ブログで成果を出していけた理由はいくつかあって、なんなら運の要素も普通にあると思うのだけれど、1つ「このおかげで上手くいった」という自分の特性をあげるとしたら

「俯瞰して、様々な視点で見る」

ということを無意識レベルで行っており、これがブログに反映された結果、上手くいったのではないかと自己分析をしている。

具体的な話を1つすると主体的に、ブログを伸ばしたい! と思った当時の僕は

  • 「こんな記事が受けそう」という記事を書いて、反応を見てはまた別の記事を書くというトライ&エラー
  • 誰かがが上手くいったという話を聞いたら、それをすぐに「自分のブログでやるならどうやる?」と取り入れる

みたいなことをしていた。

ここまでなら、よくある話だと思うけれど、

僕ははっきり言って、コツコツした努力が苦手で、いつだって裏技を探すタイプなので「記事のクオリティをあげる」努力と同時に、「どうしたら読まれるか」をとにかく研究した。

天才的な文才が無いと、「記事のクオリティをあげる」だけでは、読まれない。だからこそ「読まれるための工夫」がいる。そんな思考をしていたと思う。

1つの実例として、そんな中、当時の自分が目を付けたのが「はてなブックマーク」だった。

簡単に言うとブックマークをみんなに共有できるサービスで、この「はてブ」を多くの人にされると、そのサービスのトップページの「ホットエントリー」という枠に乗り、そこに載るだけで大量のアクセスが集まる、ということを知った。

当時は1日で50件程度のブックマークが短期間でつくと、ホットエントリーに掲載され、そこに載るとそれだけで一気に1万人くらいが見てくれる。

それを知って、とりあえずライブドアブログではじめていたブログを、はてブが貰いやすいらしいはてなブログへ移動。

しかし、もちろんそれだけだと全然はてブは集まらない。

なんとかはてブをされるにはどうすれば良いか試行錯誤してみたところ、1つとても上手く行く方法を見つけた。

それが

「自分と同じようなブロガーに、はてブをつけて回る」

ということだった。

他のブロガーたちも「はてブが集まるとアクセスが集まる」ということはなんとなくわかっていて、自分のブログにはてブ欲しいなと思いながらも、中々集まっていない状態だった

だからこそ、まずは自分がしてみる。

10件程度試しに行ってみると、翌日、自分のブログにも1,2件だが、はじめてのはてブがついていた。「ホットエントリー」には乗っていなかったが、「新着」というちょっとした部分に掲載されて、少しだけアクセスが増えていた。

完全に、これだと思った。

勝機を見出した僕は、自分の記事はもちろん毎日書きつつも、同じように毎日のように記事を書いているブロガーたちを見つけては、かかさずはてブをつけていった。

ちなみに、「ブログの勉強」も兼ねていたので、機械的につけるのではなく、ちゃんと記事を読んで、読んだことがわかるようにその感想を書いてつけるようにした。みんなブログが読まれてない。ブログを読んで感想までくれたら、絶対に嬉しい。

その思惑は上手くいき、一日30件程度はてブをつけると、翌日には5.6件返ってきていた

ここで、僕はさらに「よくはてブを返してくれる人」をリスト化していった。はてブを返してくれた人をお気に入りに登録して、フォルダにためていった。

いつもつけてくれる人のところにはかかさずはてブをしつつ、新規開拓をして、返してくれた人は新規でそのリストに入れる

そんなことを繰り返した結果、どうなったか。

 

僕の手元には「ブックマークつけると、大体はてブを返してくれるブロガー70人程度のリスト」ができあがった。

 

こうなってからは、無双だった。

自分の記事を更新したら、その70ブログを順番に開いて、最新記事に順番にはてブをつけいてく。

すると、翌日には50人程度の人がブックマークをしてくれており、僕のブログはホットエントリーに乗る。

ホットエントリーに乗るとアクセスが大量に増えて、それを見た人がまたはてブをしてくれる。

 

そんな風に、僕のブログは一時期書く記事の8割以上がホットエントリーに乗り続けた

あまりにも大したことない記事も乗るものだから、流石に気付く人が現れて、昔からそこにいた人達に「場を荒らすな!」とめっちゃ怒られた。

 

でも、それも1つのはてなブックマークになるから、そのおかげでさらに伸びていった。ありがとう、炎上耐性

 

当時は「はてなブックマーク互助会問題」のように言われることもあったけれど、自分のやっていたことは(裏の狙いこそあれど)、他のブロガーの記事を読み、はてブで感想を書く、ということなので、特に悪いことをしたとは思ってない。(ただまっすぐ記事クオリティで勝負していたわけじゃないので、ズルをしたとは思っている)

ちなみに、その手法がじわじわと流行り、公式に対策されてしまったので今はこの方法は使えない。

 

僕はその後ブログで様々な実績を作っていくわけだけれど、実際のところ「コンテンツの面白さ」「文章力」だけで上り詰めたとは1mmも思っていない。

もちろん、普通の人よりは面白いコンテンツや上手な文章を書けるとは思っているけれど、偏差値で言ったら55くらいの話で、そこにとてつもない才能は無いと自負している。

ただ、この「裏技を探る力」が他の人よりもすぐれていたから、その掛け合わせで結果的に「人気ブロガー」になっていたのだと、今ならはっきりとわかる。

その後も、もちろん良い記事を書くことは意識していたけれど、同時に届けるための「SEO」「バズ」みたいなことも研究しながら行っていた。むしろ、こっちの届ける側の方にエネルギーを割く時間は多かったかもしれない。

 

ブロガーにありがちな、クオリティにすごくこだわったり、緻密な分析をしたりすることはかなり苦手で、マーケットの隙間を狙ったり、既存の人気なものの視点をズラしたり、もうひとひねり加えることで成果を出すことが圧倒的に多かったなと振り返ってみて思う。

 

本当に重要なコアのような部分を見極めて、小さな力で、大きな成果をあげていくことに、すごく喜びを得ていた。

今、かっこよくいったけど、ようするに怠け者ってことだとも思う。

やってきたことをまとめると

  • 「固定観念に囚われず、様々な視点から物事を見る」
  • 「通常ルートではない、皆が思いついていない裏道、抜け道(ズル)、違う道筋を探す」
  • 「いけると少しでも思ったらトライ&エラーで気軽に実践」

これの繰り返し。

ちなみに、はてブ以外でも、「みんなが目をつけてないけど、紹介したら儲かるもの」を見つけるのは上手かったと思う。

雑記ブロガーがAmazonプライムとAmazonで買ってよかったものをやたら紹介するのは、半分くらい自分のせいだと思っている。

【退職!フリーランス編】開放感とスプラトゥーン2(2017年 26歳)

そんなふうにブログで稼げるようになり、

2017年8月、26歳。ついに会社を退職。

人生で忘れられない瞬間TOP5に入ると思う。

このときのなんとも言えない感情は今でも覚えている。

自分はもう、あんなに嫌だった社会のしがらみを我慢しなくてもいいんだ。

自分が生きたいように、やりたいことをやって、生きる事が出来るんだ。

そんなことを思った帰り道だった。

仕事を辞めるのって結構勢いでやる人が多いと思うんだけれど、僕は石橋ぶっ叩き過ぎて最早骨折するんじゃないか? ってくらい叩きつくしての退職だった。

具体的には

  • 月100万円稼げるようになっても生活コストを一切上げず、会社員の給料のみで生活。他は全額貯金or投資へ。数年間無収入でも生活できる状態を作った
  • 色々な人にあって、横のつながりを作った。「うちで働かない?」と行ってくれるWeb系の会社もチラホラあった(リップサービスかもだけど)
  • ほぼ放置でも入ってくるブログ収入(月100万円程度)

を作ったうえでの退職。

そして何よりも「自分で選んだ」というのが、本当に大きなことだった。

こうなる前に何度も「もう辞めちゃえよ」とか散々言われてたんだけど、そこでなあなあで辞めずに、自分が納得して、ちゃんと踏ん切りがつくまで粘り、決断をした。

その事自体が、自分の人生を生きる、っていう一歩目をちゃんと踏み出すことが出来た証だなとか思った。

まあ実際のところ、今思うと、もっと早く辞めとけやって思ってるけどね。

不安とやっちゃったという気持ちと、もうここに来なくても良い、自分の人生を生きるんだという高揚感。そして、もう戻ってきたくないという強い気持ち。

 

これからバリバリブログやるぞ~~~~!!

 

とか思ってたんだけど、実際のところ、

主に、夜通しスプラトゥーン2をやっていた。なんでだ。

副業をするようになってから、完全に封印していたゲームだけれど、このときはなんかタガが外れて買ってしまった。結論、最高に楽しかったし、このあと2年近く、スプラトゥーン2に取り憑かれることになる。

 

これがきっかけで仲良くなった人もいたり、なんなら仕事一緒にしたりもしたので、まあ今となっては良い思い出ということにしておく。

 

フリーランスになった自分は

  • 今まで以上に色々な人と会う
  • 今まで以上に色々な場所へ行く

ということを意識していたように思う。

また、なんとなく色々なスキルがほしいと思いながら、フォトショやイラレ学んだりとか、色々手を出しては見たけど、全く身につかなかった。

あとクライアントワークも一瞬やってみたけど、普通にめっちゃ苦痛で「俺はこんなことやるために独立したんじゃねぇ!」と一瞬でブログに帰ってきた。

 

この時は「ブロガー」だけでなく「アフィリエイター」といわれる方々とたくさん交流をさせて貰った。新しいコミュニティも出来ていたと思う。

当時の自分はなんとなく「月に300万円」くらいがアッパーだと思っていたけれど、普通に1000万円以上稼ぐ人がたくさんいて、非常に刺激を受けた。

月に100万円稼いでいる自分が天狗になって「私が、神だが???」と調子に乗らず「自分なんてまだまだです!!!」という気持ちでいられたのは、この時に関わってくれたアフィリエイターさんたちのおかげである。ありがとう、そしてありがとう。

【法人化編】アフィリエイトで、めちゃくちゃ儲かる(2018年 27歳)

ブログ(アフィリエイト)もなんだかんだ調子が良くて、知り合いから

「その売上なら法人化したほうが税金的にお得よ」

とアドバイスを貰い、法人化することに。

はじめはビビり倒してたし、ブログって売上の安定性低いから、そういう意味でもどうかな~とか思ってたんだけど、まあ何事も経験! ということで法人化してみた。

そうして立ち上がったのが株式会社HFちなみにヒトデフェスティバルの略です。

といっても、クライアントワークも無ければ、お金を借り入れする必要も無いので、別にやることが変わらない。

立ち上げでめちゃくちゃハンコ押すのが面倒だったくらいで、あっさり法人化。まあ、こんなものかという印象だった。ちなみに税金面では確かに得をした。

あとは何もしてないのに親族の評価があがったのを覚えている。

「仕事辞めてフラフラして!次はいつ働くの!」みたいな感じだったのが「あらま!立派になって!」くらいの変わりようだった。何も変わってないけど、世間はそんなものっぽい。

 

この辺は月に100~200万円くらいブログで稼ぎつつ、旅行とかたくさんいって、ザ・フリーランスな日々。

全国各地、何処でも働けるぜ! とか言って実際に色々行ったけど、実際の所

  • 旅先で働くのダルい
  • っていうか旅に来てまでなんで働かなきゃなんねーの?

という至極当たり前な着地になって、結局仕事のほとんどを家でやったりしてた。

ただ移動中とかに仕事出来るのはいいなと思ってた。ブロガーの友達とハワイに行った帰りに、周りのみんなが寝ている中エコノミーの狭い座席で、翌日のセール情報記事を必死に作ってたのとか、今思い返すとシュールで結構笑える。

当時でいうと、人とも会いつつ、新しくサイトを色々作ったんだけど、そのうちの1つがスマッシュヒットして、月の収益のアベレージが100~200万くらいから、300万~500万くらいにアップしていた。

ただ、自由を感じながらも、ブログの不安定さや危うさもヒシヒシと感じていて、次の一手を打ち続けないとという漠然とした危機感が結構あった。

なので、生活コストをあげることにも懐疑的で、収入に対してもまあまあケチケチしてたと思う。

当時同じくらい稼いでいたブロガー友達がタワマンに引っ越したりしてるのを見て、「アホやん!」と「なんか羨ましい!」という気持ちが混同していたのを覚えている

ただこのあたりで遠距離恋愛をしていた彼女が愛知に引っ越してきたのをきっかけに、いつまでも田舎におらんでもいいかという気持ちで名古屋へ引っ越しをした

「そうだ!コワーキングスペースを作ろう!」「あと世界一周クルーズにも乗ろう!」「っていうか結婚もしよう!」(2019年 28歳~)

ブログだのアフィリエイトだの、オンラインでうだうだやってる人たちの97%が思うことに

「実店舗、やりてぇな」

があると思います。わかります。かくいう私もそうでした。

ヒトデの場合は

「コワーキングスペース、やりてぇな」

でした。いつだってブロガーとかが自由に集まれてさ、ブログの話が出来たりしてさ、しかも自分の作業場所にもなる、最高じゃん、と。

(※現実的にはそうはならんのだけど、当時は本気でそう思ってた)

 

とはいえ、実際問題コワーキングとか儲からないし、今までのビジネスと違って初期費用やランニングエグいほどかかるし、できんよなぁ~~。とか悶々としながら、この話をアフィリエイターさん達との飲み会でしたんですよね。

そしたら目の前に座ってたなかじさんというアフィリエイターさんと盛り上がって

「いや、やれるんじゃないすか?」

「初期費用とか、クラファンでよくない?」

「ランニング厳しいなら、オンラインサロン的なのくっつければ良くない?」

と今思うと結構ガバガバな話なんですが、盛り上がってるんでそのまま内見の連絡まで入れて、本当にやることになりました。勢いって凄い!

今思うとこの辺りは怒涛な日々だったけど、楽しかった。

 

2018年12月の飲み会で「やろうぜ!」って話になって、翌週には内見をはじめて、年明け法人(株式会社AB&Co.)を作って物件決めて内装決めて、他にも色々決めてクラファンして資金集めて、3月にオープン。早い、早すぎる。

クラファンも大成功で、400万円以上の資金が集まりました。本当にたくさんの方に応援して頂いて超嬉しかったです。

https://camp-fire.jp/projects/view/126784

というわけで、12月に閃いてから3月にオープンというかなり無理なスケジュールで開始したんですが、オープンして2週間で代表ワイが3ヶ月(98日)の世界一周旅行に行ったんですよね。(というか、本当は「世界一周から帰ったらやろうよ!」って言ってたのに「やっぱ我慢できねぇ! いうて3ヶ月あればいけるやろ!」と強行したのである)

 

そしたらね、爆裂赤字を垂れ流してた。笑った

 

そりゃそうなのよ。普通にやると赤字になるから、オンラインサービスも一緒にやろうって話てたのに、世界一周行っちゃったから、そらそうなるのよ。

ちなみに初期費用についても想像以上にかさんで、クラファンでもカバーしきれなかった。クラファンリターのパーティ、豪華にしすぎて赤字だったのは笑った。アホすぎる。

当時の事情をぶっちゃけると、家賃や人件費等でざっくり月60万円の固定費がかかっていたんだけど、当時の客単価1000円以下! 売上月に10万円とか!

どう足掻いても黒字にならへん!策も無しでやったらそりゃそうなる。いや、策はあったんだけど、ワイが遊んでたから……。ごめんね。

 

ちなみに帰国した7月から元々予定していたオンラインサロンを本格始動し、イベントを色々頑張って11月にようやく単月黒字! この次点で累計赤字数百万! タダ働き最高!

 

その後1年かけて主にオンラインサービスに力を入れて立て直して、役員報酬もしっかり貰えるビジネスになりました。

コロナが直撃したり、その流れでコワーキングがオンラインの会員限定になったりと、色々ありましたが、今でも1000人以上の方が会員になってくれていて、日本最大(たぶん)のブロガーコミュニティとして楽しくやってます!

世界一周クルーズへ

先ほどからチラチラ話しているんだけど、この年、世界一周クルーズにも行きました。

97泊98日という狂った日程で、価格はざっくり2人で500万円。当時は今ほどお金があったわけじゃないので、めちゃくちゃ悩んだのを覚えている。(いや今でも悩むが)

 

きっかけは彼女(今の妻)が、「なんかこんなのあった~!」とチラシを持ってきたところから始まって、はいはいワロスワロスとスルーしてたんですが、周りの人に話すたびに「面白いから行け行け」と囃し立てられ、彼女の強い要望があったのもあり、結局行くことになった。

当時記事にもしてた:https://cruise.hitode-festival.com/?p=6652

 

決め手になったのは、「20代でクルーズで世界一周した」という体験の「面白がられそう」感が1番で、希少性が高くて、むしろコスパ良くね!? みたいな。っていうか世界の名所みたいなやつ一撃で全部巡れるって凄くね!? みたいな。

あとはやっぱり、98連休が取れて、ある程度お金があって(それに加えて何処でも働けて)、子どもやペットもいない、そんな条件が揃うことって、今後の人生であんのか? あるとしても老後じゃね?

と自分を奮い立たせて行くことになった。(もしくは彼女にマインドコントロールされていた)

 

ちなみに、結果的に帰国した翌年にコロナが蔓延し、ネコを飼い始めたりもしているので、このタイミングを逃したら、マジで老後まで乗れなかったなと。今思うと良い判断

あと、乗ることが決まった瞬間に、JTBクルーズさんに頑張って繋いで貰って、オフィスに行って「俺のブログの宣伝効果、すごいですよ!!」みたいなプレゼンをして、ちゃっかり仕事として乗ったので、そのへん結構偉いと思う。

 

世界一周クルーズ自体は非日常の連続で非常に楽しく、行って良かったと思ってるけど、もうちょっと老後に行くもんだなとか正直思った!

その辺の話はこちらで!▼

【本音で書きます】豪華客船世界一周クルーズでぶっちゃけ微妙・不満だったことを全部書く!!!

https://cruise.hitode-festival.com/?p=10460

 

ただ、引退した爺さん婆さんたちが「あら~~、こんなに若いのに優雅ね~~~~」とか言ってくる中、1人船内のカフェでカスみたいな衛星通信の電波で仕事をして「これのどこが優雅だ!! どこが!!! カス!!」とブチ切れていた。

 

ちなみに仕事の一貫で、98日間毎日日記を書いたので、世界一周クルーズに興味ある人は読んでみてねん▼

https://cruise.hitode-festival.com/?p=9169

 

当時は本気で悩んだけど、何度思い返しても楽しいし、人に話すネタとして受けもいいし、実際に行った自分グッジョブ過ぎるなと思ってる。

ただ法人化してはじめての決算だったのに、いきなり申請月~納税月まで丸々日本からいなくなったので、税理士には迷惑をかけた。ごめんね(親と税理士に凄く協力してもらった。親には売り上げとかちゃんと伝えてなかったので、とんでもない量の法人税に「これ詐欺じゃないよね?」とめっちゃ確認された)

 

3ヶ月も遊んだんだから、売上やばくなるかな? とか思ったけど、何故か右肩上がりで調子が非常に良かった。ブログってすごい。

このクルーズをきっかけでクルーズ関係の発信をたくさんしたり、知名度も上がったりと、なんか新しいことをとりあえず動いてみるのっていいよな~とか思っていた。

 

あとこの時はまだ結婚はしてなかったんだけど、帰国した後に無事入籍。翌年には結婚式も行った。

巷では「結婚式は地味にして、新婚旅行でお金使う方がいいよね!」とか言われてますが、派手に結婚式をして新婚旅行に世界一周クルーズに行く、そんなケースもある。二兎を追うもの、二兎を得る。ソースはワイの嫁。

YouTubeと書籍化。茶太郎を添えて(2020年 29歳~)

かわいいね

翌年頭、コワーキングの経営も立ち上げの忙しい期を抜けて、結構暇になってきていた。

そんな中、セミリタイア済みの友人(仮想通貨で一発当てた)と話している中で

 

「っていうか、俺達でYouTube一緒にやったら楽しそうじゃね?」

 

という話になり、ほなやるかー! と、編集メンバーの募集やチャンネルコンセプトを考えながら、翌月2月には動画投稿を開始していた。報酬の振り分けが面倒だったから、新しく法人も立てた。

当時の記事はこちら

【ヒトデせいやチャンネル】youtubeを二人で始めたよ!!!理由とか内容とか!100日後も生きているヒトデです 改めて今年の2月からyoutubeチャンネルを本腰いれて始めました チャンネルこちらです▼...

チャンネルはこれ▼

ヒトデせいやチャンネル

 

今振り返ると、何やるにしても毎回初速が非常に早い。

「とりあえずやってみるべ」→「改善するべ」のループが結構高速で回っていた。半年ほど、ほぼ毎日更新をした。

 

はじめはある程度苦戦したりもしたけど、途中からパターンに入って再生が回るようになり、結構良い感じになったところで、速攻で飽きた!!!

良くないね~、これ。

まさにYouTubeをやるためのYouTubeであり、バックエンドもなく、これをきっかけにやりたい事業があったわけでもないのが敗因だと思う(いや負けてはないけれども)

今思うと、社会性が無い(抽象度の低い)事業だとこうなるよね、とわかる。自分のためだけに頑張るのは限界があるのだ。(金があるなら尚更)

2月にスタートして、4月に1万人、8月に5万人突破。このあたりでやる気を失って更新が停止! そのまま半分放置で翌年(2021年の6月)に10万人を突破した。銀の盾をゲット!

ただ前述した通りで、だから何? という話で、特に何かを売りつけるでもなく、ユーチューブを楽しんで、得たお金(アドセンス)で2人で「美味しいものを食べることで発想が豊かになる会議」をしたり「ゆったりとした空間でアイデアを出し合う合宿」したりしてた。

ただ、YouTubeはブログやツイッターとは違う層が見ている実感はあり、この時期はコロナで発信内容との噛み合いが良かったこともあって、自分の知名度の上昇等、間接的には良いことがたくさんあった。

 

自分的にはこうやってYouTube運営みたいなのを1つやりきったという体験が非常に良かったと思っている。今後、何やるにしてもいいしね。

あとおまけとして、登録10万人を超えると銀の盾を貰えるんだけど、これが甥っ子をはじめ子どもたちに最高にウケが良い。

 

「ええうえぅえぇえ~~~!?!?!? 本物ォ~~~~~~!?」

 

とヒカキン見つけたくらいの騒ぎになります。最早神になれます。神。

あとはこのあたりだと出版関係が複数あったので紹介する。

リベ大本の参加と、自分名義の2冊の本を出版

今となっては知らない人の方が珍しい「リベ大」のお金本。これにメインライターとして参加した。

 

経緯としては、学長からCWで「ヒトデ~、本書かへんか~?」と連絡があったんで「書きまぁす」ととりあえず返事したらやることになった。そんなことある? 書いてて気付いたけど、新しいことやるの、毎回このパターンじゃない?

メインライターということで、かなりゴリゴリに書いた。っていうかすげー書いた。(本の中でもヒトデ先生として登場!)

でも、じゃあ自分がゴーストライターみたいな感じで作ったのかというと、そんなことは全く無くて、めっちゃ多くの人が関わり、そのトップに学長がいて指揮を取っているというイメージ。

関わる人のモチベーションも高く、しかも優秀で、みんなで「もっともっと良い本にしよう!」という空気感が本当に良かった。

1番ピークなときは週5で両さん含めたみんなで通話をしながらめちゃくちゃ作ってた。文化祭の準備とかと似たものを感じる。

苦労の甲斐もあって、累計170万部とかいう化け物みたいな本になっている。そんな本の制作メンバーになれたことは、素直に嬉しい。両さんとは今でもたまに飲みに行くけど、そのたびに絶対1回はこの本の話になる。

執筆でいうと、その半年後に、自分のはじめての本が出る。

KADOKAWAさんから、2021年 3月 凡人くんの人生革命

初出版で興奮したし、目標としていた1万部も無事に超えた。

自分の本が本屋に並ぶということに、小説家を挫折した自分は非常にグッと来た。

そしてそこから立て続けに、次はブログ本。

翔泳社さんから、2021年 8月 ゆる副業の始め方アフィリエイトブログ。

こちらはブログ特化ということもあって、厳しいかと思われていたのだけれど、蓋を明けてみると現時点で6.7万部とブログ本としてはかなり異例のヒットをしている。

ちなみにレビュー評価も滅茶苦茶いいのは自慢です(すごくない!?)

YouTubeのときも思ったけど、勝手に「まあこれはパイが小さいしな」とか決めつけるの、本当に良くない。

可能性、引き出していこうぜ!

アフィリエイトで月に2500万円稼ぐ!

そんな流れもあって、さらにアフィリエイトも絶好調で、平均して月に1000万。ピークのときで2500万円とかの利益を出していた。社員はおらず、外注費用は月に10万円とかなので、バグった利益率(と納税金額)を叩きだしていた。

これに関してはもう普通に運が良かった。時代の波に乗ったとしか言いようが無い。もちろん頑張ってはいたけれど、自分のやってることに対して月に1000万も2000万も稼げるのはおかしいじゃん!(でも!続いてくれ!!)という気持ちでいつもいた。

唯一褒められる点があるとするなら、「あたりをつけて色々やり続けていたこと」これでしかない。

「こんなのやったら面白そう!」「これやったらええやん!」みたいな好奇心の元、楽しく、新しいことをやり続けていたら、結果スマッシュヒットが出た、みたいな感じ。

嫌味っぽく感じたら申し訳ないんだけど、本当にここに関しては大して頑張ってないんですよね。運要素、でかすぎる。

 

あとネコを飼い始めた。茶太郎、可愛すぎ。

【FIRE達成編】虚無りつつ、YouTubeで遊ぼうの日々 2021年

そんなわけで、大して生活水準を上げていない中で、ブログの売り上げで、定期的に高配当ETFやインデックス投信を積み上げていたところ、そんなアホみたいな売上が継続的に出ていたので、社会人時代に渇望していた目標である「FIRE」を普通に達成していることに気付く。

 

まあ、普通にコワーキングもやったりメディア運営をしていたので、いわゆるサイドFIREという状態とも言える。

(ただ、それらの収益がなくても、金融所得>生活費 は完成していたので、FIRE達成と言ってもいいかもしれない)

具体的に言うと、月25万円くらいの配当収入がある状態になっていた。

ちょうどYouTubeも一段落ついて暇だったので、毎日ゲームとかしつつ結構時間をもてあましていた。

1日の仕事時間は1時間以下で、その時間を有意義に使っているかといわれると全くで結構虚無!

 

これ良くないな~と思ったので、ランチ会を企画してみたり、人とチラホラ合うようにしていたら、流れで

「非属人YouTubeチョロいから、伸ばして遊ぼうぜ!」

的な流れになり、また一緒に会社を作ってYouTubeチャンネルを作って遊んでいた。たぶん1年で20チャンネルくらい作ったと思う。また誘われて事業やってるよ。

 

後ろでアフィリエイトが1日50万円とか出ているのに、ガン無視してアドセンスの1000円に一喜一憂していた。

これも結構上手く行って、1番良い時で月100万円程度のアドセンス収入にもなって楽しかった。

1番エースのチャンネルが登録10万人とかまで行き、数百万円で売却したりもした。

 

ちなみに逆に200万くらいかけて準備したチャンネルが爆死して普通に1円も稼げなかったこととかもあった。

ただ、段々と勝ちパターンもわかってきて、結局これでお金増やして、それがなんなわけ??

 

と2人して虚無化し、なぁなぁになっていってしまった。

後半は、再びダラダラとした、張りの無い日々に戻っていった。

””虚無””からの脱却とコーチング。(2022年 31歳~)

事業がうまくいき、FIREをして、かつて欲した理想の生活を手にした。

お金があり、友達がいて、家族がいて、それなりに毎日楽しく、何にも縛られず、好きな時間に、好きな人と、好きなことをして、ストレスも無い自由な日々。

どう考えても不平不満の出ようが無いと自分でも思うんだけど、3年も経つとこう思うようになった

 

「自分の人生、果たしてこれでいいのか~~?」

 

と。いや、普通に考えてよくない? という気持ちと、いや、でもやっぱいいのか? と葛藤していた。

自分なりに分析をしてみると、ずっと目標にしてきた「心身ともに自由な暮らし」を達成してしまったことで、目標が無くなったことが原因だと思っている。

生活に張りがなくなり、ゲームしたり、アニメや映画見たり、毎月旅行に行ったりしてるだけの日々。

でも、目標を達成したのであれば、それは素晴らしいことなのでは? ゲームはクリアしたんじゃない? とか思うわけだけど。

でもさ、ゲームだったらエンドロールが流れて終わりだけど、俺の人生、まだ終わんないじゃん。

なんなら、これからの方が長いじゃん。魔王倒した勇者、その後の人生まだまあまああるじゃん。どうすんのよ!

FIRE後に求めていたのは結局「仕事」?

そんな風にうんうん悩んでいると、色々なことがわかってきた。自分が欲しているのは、結果だけではなく、「過程」にもあったんだなと。

ゲームクリアには価値があるけれど、その過程にはもっと価値がある。っていうか最早、その過程こそが真の価値だと感じる。

自分がブロガーとして頑張って、独立して、試行錯誤していた日々のこと。目指したい世界があって、上手くいったり、いかなかったり、時には大喜びし、時には凹んだり、新しいことを習得し、新しい人と出会い、成長していく。

そんな自分がFIRE状態を作るまでに積み上げてきた過程こそが、クリアをした自分が今、改めて欲しいものじゃん、っていうことに気付いたわけ。

 

そんならよぉ~~、また始めたらいいだけだよなぁ~~~?

 

ヒトデくんクエスト1はクリアした。金稼いでFIREして結婚して猫撫でてエンドロール流れた。

そんならヒトデくんクエスト2、始めたら良いだけだ。よしっ、解決っ! はじめっぞ!

悲報:ヒトデくんクエスト2、始まらない

それなら新しいことをやればいいだけ、と思いながら、色々と新しいことを試した。

趣味もそうだし、事業もそう。とにかく興味がありそうなことを片っ端から始めてみた。

でも、ヒトデくんクエスト2、始まらない。

当時のような熱量がない。ちょっとやってみては、飽きる。とりあえずやってみては、辞める。それの繰り返し。なんなんだこれは?

この理由はシンプルに「やれることをやろうとしていた」からだと思う。

本当にやりたいことではなく、やれる範囲で、なんかうまいこといきそうなことをやってるだけだった。

FIREを目指す過程で、色々な事業に手を出してきた。特定の分野に関しては「これはこうしたら上手くいく」みたいなコツを掴んでいたし、「結局やるだけじゃん」みたいな当たり前の結論に萎えたりしていた。

そうやって得たスキルや経験を元に、やれることばかりやろうとしていた。でも今の「やれること」の延長線上に、新しい物語は無い。

「今の延長の人生のまま終わるのは嫌だな」って言っているのに、今と同じことをやり続けてるんだから、ヒトデくんクエスト2、始まるわけない。ヒトデくんクエスト1のDLCを延々と遊んでるだけだ。

そんな状況で出会ったのがコーチングだった。

先に伝えておきたいのだけれど、「やりたいことが見つかった! それはコーチング! ヒトデくんクエスト2はコーチングに捧げるぜ!」みたいな話では無い。

いつものようになんとなくコーチングに興味を持ち、「新しいことやってみよう」の延長でなんとなく学んでみることにした。

まずは一番すぐに受けられそうな銀座コーチングスクールを受けた。続いて昔から好きだったストレングスファインダーにも認定コーチがあると知って、その講座も受けた。どちらも試験に合格し、認定コーチの資格を貰った。

となれば実践や! ということで、実際に友人にやってみるとこれが面白い。

自分には良くも悪くもこういう特性がある▼

  • 常に変化を求める(飽きっぽい、同じことの繰り返しやルーティーンは辛い。人と同じことはしたくない)
  • 少数でも良いから、1人1人と狭く深い関係を築きたい。浅い表面の会話ではなく、深・本音の会話がしたい。(大人数(5人以上)の集まりが苦手)
  • 自由度高くないと無理(縛られるの苦手すぎワロタァ)

コーチングは、常にクライアントが変化していくし、まさに1対1の深い関係だし、基本オンラインで簡潔する上にやり方に縛りもない。

まさに「やりたい」尽くしだった。

むしろ変化を起こせないなら失敗と思ってるし、誰よりもその人のことを理解し、その人の親よりもその人の可能性を信じて応援する存在で在りたいと思ってるし、そのために常に学んで、クライアントにプラスになる新しいことを試し続けたいと思ってる。

滅茶苦茶ええやん、と。一生やれるやん、と。

そこで、さらに自己研鑽ということで、紹介して頂いた縁もあり、マインドセットコーチングスクールという新しいスクールでコーチングを学ぶことに決めたのだった。

【MCA入学!】コーチングしかしてないコーチって、ダサくね?(諸説あり)

結構軽い気持ちで入ったマインドセットコーチングスクール(現在、マインドセットコーチングアカデミー)、これが中々にすごかった。今までのスクールとの違いに驚く。

まず主催側も参加者も熱量が凄い。言い方が難しいけど、本気度が凄い。今までのスクールを貶すわけじゃないけど、明らかに異質で、学びが深い。参加者のレベルも高いように感じた。

っていうかぶっちゃけ、はじめのうちは講義で何言ってるのかあんまりわかってなかった。横文字、わからな過ぎる。みんなわかるの? と辺りを見渡すとめっちゃ頷いてる。マジかよ。めっちゃググりながら講義を聞いてた。

ただググって意味が分かるころには次の話に進んでいるわけで、結局アーカイブを何度も何度も見直しながら学ぶことになった。当時の正直な感想としては

「なんかレベル高くて凄いけど、これわかるようになったら凄いことになりそう!」

という、ある種楽観的な未知へのワクワク感だった。

MCAに入学したのは2023年の10月だけれど、それから卒業までの半年間(というか卒業後も)コーチング漬けの毎日を送った。ちなみに数えてみたら、2024年は169回セッションをしていた。

 

で、そんなスクールではじめにやるのが「自己適用」。つまり、これから教えるコーチングの力を、自分自身で体感しようというものだ。

コーチングを行うと、クライアントには何がおこり、どんな心象風景なのか。それを、まずは自分自身で体感する。よく考えたら、そりゃそうだ。自分が提供することの価値も、何がおこるかも、知っておくべきだ。

逆に言うと、自分で「コーチングすげぇ! これは人生変わる!」と思ってもないのに、人に「人生変わるから俺のコーチング受けろよ」って意味不明、という話だ。それは本当にその通りすぎる。

 

でもそうなると、1つ問題がある。自分はFIREして「何かやりたいことほしいな!」みたいな状態で受けていて、だからこそこれからはコーチになろうと思っている。でも、

「本音でやりたいことして生きようぜ!」と伝えたいが、自分はそもそも本当にやりたいことして生きているのか? コーチングはたしかに「やりたいこと」ではあるけれど、それでいいのか?

結論、いいわけない。

そんな人間に、背中とか押されたくない。

結局「自分の人生、これから何やるの?」というFIRE後の課題が再び帰ってきた。どうしたらええんや~~! とか思ってるうちに、スクールのメンターとの面談を迎えた。

自分が「勝手にやってしまっていること」はなにか

メンターの方と、今までやってきた仕事を振り返る中で、自分のことがわかってきた。

これまでたくさんのブログ記事を書き、サイトを作り、YouTubeチャンネルを作ってきたが、その中で、自分が明らかに夢中になってる要素を抜き出して、包括するとこんな行動をしてる時だった

・他と比べて明らかに良いものを作っている時

・新しいサイトのアイデア、切り口を考える時

それぞれをもう少し深掘りする。

1:他と比べて明らかに良いものを作っている

→自分にとっての「明らかに良いもの」とは?

→今までに無かったもの、他のサイトや記事では代替不可能で。この記事じゃないと駄目だと思えるような記事やサイトのこと

2:新しいサイトのアイデア、切り口を考えること

→自分にとっての「新しいサイトのアイデア」とは?

→需要があるのに、まだ世の中に無かったものを作ること

つまり、(需要はあるのに)まだ世の中に無いものを閃いて作る

ということが、やりたいことだし、ずっとそうやって成果を出し続けていることがわかった。

ブログで稼げるきっかけになった記事も、「これ良いサービスなのに、わかりやすく紹介してる人全然いないじゃん」と思ったのがきっかけだったし(ちなみにAmazonプライム)、これまで作ってきたサイトも「こんなのあったらいいのに、まだないから作るか」というモチベーションだった。

(というか、逆に単に「これだと儲かるから」とかだと全くやる気が出ずに、始めてもすぐに挫折していた)

そして、それが儲かったことにより、競合が増えると「他の人がやるなら、別に自分がやらなくてもいいか」と興味を失っていった。

自分がやりたくて、勝手にやっていて、しかも世の中に価値提供もできていることは「まだ世の中に無いものを作る」ということだった。

 

今は、メディア運営者として、「まだ世の中にないサイトを作る、YouTubeチャンネルを作る」といったことをしている。それをやり続けるのも、まあ普通に楽しそうだ。

でも、それは成果が出ることであって、チャレンジしたいことではない。

自分がチャレンジしたいのは、やはり創作活動だった。

振り返ると、何気にそんな記事をたくさん書いている。

例えばこの記事は2016年(なんと8年前!)の会社員時代に、書くことで生きたいと書いている。

書くことが好きです。僕の野望を語ります

https://www.hitode-festival.com/?p=409

また、この記事では

本を出版するという話と、たぶん泣いてしまうという話

https://www.hitode-festival.com/?p=13300

「小説を書く才能は無かったけど、ブログを通じて”書くこと”で生きて行けて嬉しい」

とか

「小説では無理だったけど、こんな形で本を出せて嬉しい」

とか散々書いてるんですが、気付きました。

 

別に、小説、無理じゃない。

 

才能があるとは思えない。特段優れているとも思わない。でも、だからといってやってはいけないわけでもない。

自分には書きたい、創り出したいという想いがあるはずなのに、「上手くできない」「才能が足りない」「がっかりされたくない」そんな防御反応で許可を出せずにいた。でもシンプルに考えれば良い。やりたいなら、やればいいし、やるべきだ。自分に許可を出すだけだ。

 

あっさり書いちゃったけど、普通に怖いし、本当にそこでやってくの?という想いもあるし、もちろん悩んだ。

でも過去に何度か挫折していて、そのうち「まあいいか」と思って見て見ぬふりしてきた創作活動が、再び人生の前に現れた。

「稼げる」ことによって、目的を見失っていた自分

結構上の方の項目で、自分が文章を書くのが好きな理由として、こんなことをあげていた。引用する▼

もっと言うと、自分の文章を見た人を何かしらポジティブな方向へ感情を揺らしたいと思っている

そしてそして、それを「心から」感じて欲しいという癖が自分にはある

心から人の感情が揺らぐのって、どんな時だろうか?

僕はそれを「不意打ち」だと思っている

予想外の方向で「そう来たか」と思わず笑ってしまう
自分では全く気付いてなかったけど、確かにここにあったと気付いて泣けてしまう

しかし、正直に白状すると、事業が上手くいくにつれて、こんな気持ちのことをすっかり忘れていた。

「嫌な会社から逃げたい」「もうあんな会社員の毎日に戻りたくない」「そのために稼ぎたい」「そのために上手くいく方法を考えたい」

こんなことばかりを考えてきていた。

もちろん、楽しんでやっていたし、そうやって頑張ってきたことに後悔は全く無い。だってFIREできたし。もうお金のこと考えなくていいとか、最高じゃん。

でも、同時にお金の引力の恐ろしさも感じる。

だって、自分が人生を通してやりたいことは、「人を笑わせたり」「人を感動させたり」することなのに、それを普通に忘れてしまっていた。いや、実際は忘れてないけれど、優先度を凄く下においていた。

生産性や、収益性の奴隷になってしまっていた。

もし、このことに気付けないまま生き続けていたら、死ぬ前になって、大量のお金を抱えながら「こんなものを貯めるよりも、人を笑わせたり、感動させたりしたかったなぁ」とか思ってた可能性がある。

そんなの、めっちゃゾッとする。本当に、気づけて良かった。

社会的成功は、強烈だし、人生において普通に大切だ。そこを極めたいと考えることはおかしいことではないと思う。

でも、自分を含め、ほとんどの人は「社会的成功」のためだけに生きているわけではない。改めて、その「社会的成功以上に大切なもの」を大切にしていこうと決意した。

決意した、とか言ったけれど、正直はじめはかなり抵抗があった。なんとなく「こんな遊びみたいなことしてていいのかよ」と思っている自分がいた。それでも、改めて大切にしていこうと決めた。

自分がみんなに見せたい景色

「自分では全く気付いてなかったけど、確かにここにあったと気付いて泣けてしまう」

そんなことを、自分自身が体験した日だった。

「メディア運営者」から抽象度を1つあげて「クリエイター」になる

そんなわけで、話をセッションに戻そうと思う。

現在特に得意なのがブログやYouTubeが得意というだけで、本質的には「まだ世の中に無い作品を生み出す」ということをやっている。「それって、クリエイターじゃないの?」とメンターの方に言われたとき、頭に強い衝撃を受けた。

クリエイターへの憧れがありながら、同時にそうはなれないと思っていた。クリエイターは崇高な職業であり、自分とは違う世界の仕事だと思っていた。

でも、抽象度を上げて考えたとき、自分がずっとやってきたことは「クリエイター」なのかもしれない。いつかクリエイターになれるかもしれない、という話ではなく、自分は既にクリエイターであり、そこを認めてあげるだけでいいのかもしれない。

胸の奥が熱くなるのを感じた。

そっか、自分って、クリエイターでもいいのか。

クリエイターとして、ただの自己満足ではなく、ちゃんと、仕事として成果を出す。

驚きと、前向きな気持を価値として提供する。

「今までに無かった、新しい王道になる作品を作る」クリエイターになる。

「次に何を出してくるんだろう」という期待感を常に纏っているクリエイターになる。

そんな現状の延長線ではない、やりたいことであるゴールを決めた時に、

自分はそこを目指しても良いと許可を出して、そこを目指すと旗を立てたその時に、

ヒトデくんクエスト2が、ようやく始まった気がした。

本当にやりたかったこと、意外とやれてない

そこから俺の人生は大加速! 充実した毎日! 執筆の日々! 苦難と挑戦! ライバル登場! アツい友情! そして華々しいデビュー!

 

みたいな感じには全然ならなかった。現実は世知辛い

 

当たり前だけど、人生は少しずつしか変わらない。生まれ変わったように、とんでもないエネルギーで全てが変化するようなことは起きない。

 

でも、確実に変わったこともある。それは、何よりも自分の頭が、そのゴールに向けて回りだしたことだ。

自分から情報を集めるようになるのはもちろん、日常的にそれらを考えるようになるし、情報を取りこぼさなくなる。

 

小説や創作活動に関するレーダーがついたように、それらの情報を逃さなくなる。同時に自分でも「そういう人と話したい!!と発信をはじめた(Voicyで小説家の人と話したい~~~!!とか言うてた)

 

小説のサロン的なとこに入ってみたりしたし、プロの添削サービスとかも受けてみたし、サロン内で自分の書いたものに意見を貰ったりもした。ゴール設定をする前なら、絶対やってなかった行動をし続けた。

 

そして、1作品を作り上げ、とあるエンタメの小説大賞にも応募してみたりした。

その結果は……

 

普通に一次で落ちた。

 

 

おい、もうちょっと橋とか棒にかかれや。

そしてこの結果を受けて自分は、こんな風に思っていた。

 

「ふ、これが””作家””の生む苦しみという奴か……」

 

浸っている。完全にその気だ。

まあ普通にがっかりはしたわけだけど、同時に「そんな一発で上手くいくわけねぇ」とも思っていた。

自分がやることは、ゴールにとって有効な行動を取ることだけだ。昨日よりも一歩近付く。それだけなのだ。

今までやらなかったことをやるから、人生は動く

普通に一次で落ちて、腕は磨いていくとして、方向性は考えないといけないなと思ってる時、出版社をやってる友人が「本当は絵本を作りたいけど、絵本は費用的に厳しい(要約)」という相談を受けた

壁打ち的にアイデアを出していく中で、「こんな人がいれば出来るのにね~」という話になった時、気付いちゃったよね

「それ、オレだね」

絵本を作る、全然頭になかったことだけど、改めて自分のやりたいことを振り返ってみる。

クリエイターとして、

まだ世の中に無い作品を生み出す

うん、全然合致!!!! やるしかない!

ということで、ちょっと考えさせてーとか言って話し合いを終えた1時間後には「やりまーーす!」とか言って手を上げたのだった。

というわけで、絵本を作ることになった。詳細はまた発表させてほしいけれど、これは楽しみだ。小説から絵本という形にはなってしまったけれど、めっちゃ楽しそうだし、やる意義もあるし、最高だ! これが終わったら小説にも再トライしていこう! とか思ってたら、同時に他の出版社の方から急に連絡頂いた。

 

「ヒトデさんのVoicy聞きました。うちで小説出しませんか?」

 

何ィーーーー!!

 

そんなことある!? 自分の「小説家の人とお茶したい!」という配信を、出版社の編集長の方が偶然聞いてくれて、話を持ってきてくれたのである(そして、うちと繋がりある小説家の方紹介出来ますよ、という話までついている。すごすぎる)

ただ、ここに関しては純粋なエンタメ小説ではなく、おそらく自分の強みを活かしたビジネス書+小説のような形になると思われる。

でも、ここで実績を積んで、実力を見せることができれば、エンタメ小説にも道が繋がっていく。そして私ヒトデは何を隠そう、実践でこそ成長をするタイプである。(練習嫌いとも言う)

そう考えると最高の機会だし、何より、頭になかったけど、そういったタイプの小説はそれはそれで非常に楽しそうだ。

というわけで、突然絵本と小説を同時に作るようになった。

幸運も重なっているし、出来すぎだろとも思うわけだけど、これも全て「人生を動かす決意のゴール設定」をして、普段ならやらない行動をしていたからこそ出会えたことだ。つまり

コーチング、すげーじゃん!!!

これが心からの感想なのである。

コーチングでより前進した妻との関係

ここまで話したような、人生全体の方向性のような話ではないのだけれど、個人的にはコーチングを自己適用しておこった結構大きな話なので書かせてほしい。

コーチングの、前提とした考え方に「全取り」がある。ようは、トレードオフだと自分が勝手に思っていることも、普通に両方いけるだろ、って考えだ。

よくある例だと「趣味に打ち込みたいけど、仕事が忙しくてできない」とかね。両取りに基づいて考えると「仕事も本気でやるし、趣味も本気でやる」が正解であり、「もしやれるとしたらどんな手段がある?」と考える。

自分の場合、これが「趣味」と「家族関係」でおこっていた。

僕は趣味として、誰にも邪魔されない空間で、1人で自由気ままに過ごすのが好きだ。その時間を確保して、何も気にせず突発的にやりたいことをしてみたり、深く内省したり、中長期的な戦略を考えたりする。

ということで、1人で1泊2日で無駄にビジホに泊まったりしていたわけだけれど、メンターの方に言われたのがコレ。

「本当に、1泊2日で、ビジホでいいの?」

う~~~~ん。

全然良くない!

僕「はい、本当は2泊3日がいいです」

メンター「2泊でいいの?」

僕「いえ、3泊がいいです」

メンター「1週間いけば?」

いや~~~、それは流石に……。

メンター「ビジホよりも内省が捗るような場所ってないの? リゾート地とか離島とか」

いや~~~~、それは流石に……!!

と速攻で拒絶反応が出たわけだけれど、まず前提として、1週間離島とか行って、内省深める。それって、めっちゃ楽しそうじゃん。ワクワクする。世間的なワクワクポイントとズレてたら申し訳ないけど、個人的には最高にテンションの上がる話だ。

でも、そんなの奥さんが快くOKと言うとは思えない。なんなら2泊3日でもブーイングをくらってるのである。1週間で、しかも離島とか。私も連れてけって話である。

 

と、ここで先ほどの全取りの話が出てくる。一旦無理とかそういうのは置いといて、方法を考えることにした。つまり

「1週間1人で離島に行く」ことができて、かつ「奥さんが快く送り出してくれる」方法である。

考えた結果、あった。

それが、我が平野家最強の発明品である「わがまま券」である。

「わがまま券」が家庭にもたらしたもの

ほんと、子供みたいな話で申し訳ないのだが、このわがまま券は我が家において最高のアイデアだった

そもそも、1人で旅行に行くことに何故妻からブーイングがおこるのかといえば、色々ヒアリングをした結果、ようするに「不平等感」があるからだった。それなら

「じゃあ君が先に行ったらいいよ!」

的な方向にしようと思ったのが、妻は僕程1人行動に魅力を感じておらず、これは頓挫した。

もちろん僕にも言い分はあり、そもそもなんで許可が必要やねん、とか不平等ってなんやねんとか思うわけだけど、それは今問題ではない。

なんとかして、両取りをしたい。つまり不平等感を無くすにはどうすればいいのか

そこで生まれたのが「わがまま券」というアイデアだった。

仕組みは簡単!

「相手に我慢をさせてしまうが、自分がやりたいこと」を行えるという券である。

これを夫婦で同数発行する。それだけ。

なんと、これで大体の問題は解決してしまった。夫婦とはいえ、お互いに何となく悪いと思って我慢していることはある。でも、それが全て解決できてしまう。

副次的にもう1つ良いことがある。それは主体的に妻を喜ばせようと思う機会が増えたことだ。僕はもう早く次の旅行に行きたいので、自然消化を待っていられないのである。そこで「ご提案」が始まる。

だから、例えば月に1回定期イベントとして「妻のやりたいことを一緒にやる日」を作った。この日、全ての決定権は妻にある。(もちろん券は頂く)

また、うちの妻は専業主婦なので、基本的にメインの家事は任せているのだが、大変そうな時は「私めにお任せください」と家事マシーンになる。(もちろん券は頂く)

帰りが遅くなりそうな時はもちろん「大丈夫? 俺迎えに行こうか?(もちろん券は頂く)」である。

僕は基本的に家事は苦手であり、「金は稼ぐから任せた! 家事代行とか便利家電とかはいくらでも使って良し!」なスタンスなので、はっきり言って絶対やりたくないことの1つなわけだけど、券が貰えるなら話はべつあり、いつでもお任せしてほしいのである。

その甲斐もあって、無事竹富島に1人で1週間行ってきた。笑顔で送り出してくれた。

https://x.com/hitodeblog/status/1758283857638699487

もう1つ良い点として、触発されたのか、妻が「これやりたい」と言うことが増えた。この前なんて1人でクルーズに乗って韓国に行ってた。何それ羨ましいんだけど。

と、ここで結果を振り返ってみると

  • 僕はやりたかったことを、軋轢無く実行し
  • しかもパートナー関係も以前より良くなった

まさに、両取りである。この体験は自分的には大きくて、「トレードオフは嘘!!」ということが実体験をもって腹落ちできた。

ちなみに、次はワガママ券を使って1人でオーストラリアに行ってみる予定。妻のわがままが楽しみで仕方ない。

【現在】クリエイター兼プロコーチという自分(2023年 32歳~

 

怒涛の半年間を追えて、無事アカデミーを卒業することができた。

ということで、現在はクリエイター兼プロコーチとして自己研鑽の日々。

 

もちろんここまで話してきた既存のサイトだったり、YouTubeだったり、コワーキングだったり、オンラインサロンだったりも後ろで走ってはいるんだけど、自分のリソースを多く注ぎ込んでいるのがクリエイターとプロコーチの2つ。

プロコーチとしては、主に「お金稼げたのに幸せじゃねぇ!」って人の人生を幸せにすることをしている。

具体的には、FIREが見えるレベルだったり、最早FIRE済の人とかは、是非来て欲しい(そうじゃない人もやるよ!)

他にも、自分が提供できることは基本何でもしてあげたい。人生の最強の味方でいたい。(絶賛考え中だ!)

クリエイターとしては、まだまだ未熟ながら、これを書いている現在では絵本と小説を作成している。

いずれも自分のスタイルを見つけながら、まだ世の中に無い、新しい作品を作っていこうと思っている。

 

現在の自分は、正直ここ数年の中でも中々忙しくしている。

でも、「完全に自由!」な毎日が続いているだけのFIRE状態よりも、今のほうが幸福を感じている。

自分が思うに、幸せとは、楽なことではない。

FIREして、責任から解放されて、自由でいることではない。

主体的に、心からやりたいことをやり続けることこそが幸せだ。

心からやりたいことをやっていく。これは、楽しいけど、楽ではない。

時には大変なこともあるし、嫌な思いをすることもあるし、責任がのしかかることもある。

身軽で、責任が無くて、楽なことが幸せと思っていた自分の価値観は、少しだけ変わりつつある。

もちろん、今でも自由を凄く大切にしているし、責任は苦手だし、身軽であることがとても大事だ。

 

でも、逆に言うと、そんな自分でも、責任を少なからず背負って、大変なことがあっても、やりたいと思っていることを日々やっている。

そんな状態こそが、幸せなんじゃないかと今は思っている。

 

主体的に、自分のやりたいことで、自分らしく事を成す。

 

これを自らが体現しながら、コーチングのクライアントの方の人生もそうしていきたい

3万文字以上の長々とした自己紹介にお付き合いいただき、ありがとうございました!

主体的に、心からやりたいことやろうぜ!

そんな感じ!

おわりっ

【追記】実際にクリエイターとして活動して、小説と絵本を出版!(2024年 33歳~)

気づけばこれを書いてからもう半年が経ったので追記!

コーチングスクールを卒業してから半年、クリエイターとしての中間ゴール(エンドステート)

  • クラファンを使っての絵本の出版
  • 小説という切り口でのFIRE本の出版

を達成した!

「今までに無かった、新しい王道になる作品を作る」クリエイター

という方向性が明確に決まっていることで

・今まで存在しなかった「きょうだい児」をテーマにした絵本の作成

(今後、障害を持った子どもが生まれたとき、本人や親だけでなく「きょうだい」に目を向けるのも当たり前になるようになるような。「障害を持った子を授かったのなら、これも読んでおきたいね」と言われるような1冊を作った)

・今までにない切り口のFIRE本の作成

(FIRE=投資、良いもの、目指すべき という今の当たり前を疑う切り口で、かつビジネス本ではなく、より臨場感を持ってその状態を体感できる物語形式で、これもまた「FIREしたい人が読むならこれも読んでおかないとね」となるような1冊を目指して作った)

と、方向性もトントン拍子で決まっていった。

 

半年間駆け抜けた結果、きょうだい児本は、テーマがニッチすぎるけれど、社会性のあるテーマなので、クラウドファンディングを実施して、548万円ものご支援を頂くことができた。

FIRE本も、初版から9000部も刷って頂き、売れ行き好調。

この中間ゴールを達成しての心境は「楽しすぎる」のと「まだまだこんなものではない」という感覚。

もちろん大変な面もあるけれど、作品作りというのはとても楽しい。特に、アイデアを考える段階はやはり楽しい。逆に課題として、本文ガリガリ書く段階辛すぎん? 自分って突き詰める部分苦手じゃね? ということも見えてきているので、この辺りをチームで解決していきたい。

 

これからも、「今までに無い切り口」で、新しい作品をドンドン作っていきたい。そして、次は映像作品にトライしたいと思っている。

そして実際に作品を作る中でわかったのは、

自分はあくまで

今までにない切り口、設定、キャラクター、会話を考えるのが好きで、

逆に情景描写とか、説明描写とかがめちゃくちゃ苦手(というかつまらない)ということ。

これは小説を書くうえでは中々致命的で、どうしたものかと思っていたのだけど、

「脚本」なら、苦手な部分全部はしょって、得意な部分やれるじゃん! ということに気付いた。

ということで、2024年10月から、半年間脚本のスクールに通い始めた。元々、自分の作った作品がいずれ映像化されて、映画化されて、その年の王道作品になる! みたいなゴールをおいてたけれど、

ダイレクトに、はじめから映像(の脚本)作れば良いじゃん!!

と。ショートカット! なんなら、脚本、めっちゃかける気がしている。まだ一行も書いたこと無いけど!

クリエイター(自分も含む)の幸福度を最大化する

そんなことを考えているうちに、以前からやんわりと思っていた

「クリエイターの幸福度を最大化する」というゴールが浮かんできた。

これは作り手である自分が幸福であるというのはもちろんのこと、他の作品を作り上げている皆に対しても思っている。

昔から「クリエイター」への憧れが凄くあり、それは小学生の時に小説を書いて、その後挫折したという経験も大きく関わっていると思う。

お金を稼げるようになってから、クリエイターへの支援を積極的に続けていて、

自分が実際にクリエイターという生き方に片足を突っ込んでる今、業界全体が少しずつ内側から見えるようになった。

まっすぐ作品を作ると同時に、これまで培ってきた「メディア運営」「発信力」「コーチング」という武器を片手に、クリエイター業界の人たち全般の幸福度を上げていけるような活動もしていきたいなと思っている。

ぶっちゃけ、打算もある

「クリエイター界隈全体に貢献したい!!」というのは紛れもない本音なのだが、ぶっちゃけ打算もある

それは

「クリエイター界隈全体を良くしたヒトデ」

に本当に自分がなっていく時、自分がクリエイターとして作品を作るときも、とっても有利だと思ったのだ。きっと、多くの人が応援してくれて、多くの人が協力してくれる。

実際のところ、作品を1人で作るのは無理なわけで、本であれば、出版社との二人三脚でいけるけど、映像となると関わる人数もさらにめちゃ増える。

クリエイターコミュニティに参加! まずはここから!

そんな想いを持っているので、いつか将来自分もやること前提で、いくつか創作系のサロンに入ったりしてみた。

その中の1つのサロンの理念がとても素敵で、自分の↑のゴールとも合致していたので

別に自分が0からやらなくても、ここに全力で貢献していけばいいんでね? となった。

(まだ具体的にあまり動けてないので、一応サロンは伏せておきます。大々的に動けるようになったら報告する!)

しかしクリエイターとしてはまだまだ雑魚で大きな貢献ができない。でも、すぐにでも貢献したい。

ということで、そのサロンオーナーに1on1する機会を頂き、コーチングマインドで全力で接してみた。

その結果、サロンオーナーはもちろん、サロン内の主要メンバーににも1on1する機会を頂けるようになった。

僕はここに金銭的な対価は一切求めておらず、このコミュニティをコーチングマインドで引き上げまくれば、クリエイターの幸福という大目標にも繋がるし、必然的に自分に足りないけどクリエイターに必要なものバシバシに入ってくるなと実感している

とか言いながら、普通に全然違うことしだすかもだけど、何はともあれ面白くなってきたね!

そんな感じで、良い感じに次の展開に動いていってるので、既存の作品作りもしながら、映像脚本の方も、頑張っていきたいと思います!

最後に:これまでの人生の総まとめと、これから

こうやって4万文字以上書いてきて気付いたことは、一貫した自分の在り方として

  • なんでもやってみる(が、すぐ飽きる)
  • 人からの影響を受けやすい。誘いにのりやすい(それが楽しいし、それで上手くいく)
  • コミュニティを作り、そこで楽しく過ごす。比較的誰とでも仲良くなれる
  • 創意工夫する。特にまだ他の人がやっていない方法で成果を出す
  • 「常識」「こうあるべき」に縛られず、物事を色々な側面から捉える。偏見を嫌う
  • 自分の表現で人を喜ばせる

という物事の通底が感じられた。そして、

人が「思ってもなかった、気づいてなかったけど、確かにここにあった」というものに、気付く瞬間や、「そう来たか」と不意打ち的に感情を揺さぶられるのを見るのがすごく好き

で、そんなことばかりをやってきた人生だとも思っている。

また、一度お金を稼げてしまったことで、大事なことを見失っていたなとも思っている。

笑わせたり感動させたりの方が、お金や地位なんかより大事だったのにと、死ぬ前に思ってたら超怖い。でも、この自分史を読んでくれたらわかるように、それでもまた大切なものを失わずに生きると決めることはできた。

なんか社会的に上手く言ってるけど「このままでいいんだっけ」「忘れちまったことを思い出したい」「実直にやってきたけど、もっと「コレを作れたなら死んでいい」というものを見つけたい」そんな人の力には、誰よりもなれると思う。

人に対しても、自分に対しても、「自分の本当の心ってなんだろう?」と問いかけ続けて、そんなことばっかり考えて、探索し続けて、創作を続けている人生。

今後もそれをずっと続けてるだろうし、もしコレを読んで、そんな平野拓哉に「心の中を一緒に掘り当てて欲しい」と思った人がいたりしたら、連絡ください。プロコーチとして、全力で、あなたの気付いていなかった、でも確かにそこにあるあなたを一緒に探します。

(その際は、自分史読んだよ! と一言くれたら嬉しいです)

XのDMが一番反応早いと思いますが、どの方法でコンタクトとってくれても大丈夫です。

一緒に心の中を探求できること、楽しみにしています。

 

そんな感じ!

 

つづくっ